第4回二科展の萬鉄五郎《静物(筆立てのある静物)》への、森口多里の発言。「二科会及美術院洋画」『早稲田文学』143号、1917年10月、264頁。この中で森口は、物質の言葉を多用している。 第5回院展の山本鼎《静物》への、石井柏亭による発言。「美術思潮 山本鼎氏の作品」『中央■大野隆徳「二科展覧会の新人」『中央美術』4巻10号、1918年10月、43〜44頁。 高村真夫「未来派の展覧会」『中央美術』2巻10号、1916年10月、51頁。■田中王堂「物質的と精神的と」『科学と文芸』1巻3号、1915年11月、67頁。■物質への傾きが精神主義によるものなのか物質主義によるものなのかは簡単に判じることはできない。しかし印象派の受容に対してはすでに両者の拮抗に関する言及があり、それが日本における大正期の南画の興隆とも関連づけられている現在、物質という概念が同時代の作家や批評家にとって共通の素地であったことは十分に考えられる。たとえば永井隆則「日本におけるセザンヌ受容史の一断面――1920年代の人格主義的セザンヌ解釈の形成と行方」『ユリイカ』28巻11号、1996年9月および永井隆則「日本のセザニスム――1920年代日本の人格主義セザンヌ像の美的根拠とその形成に関する思想及び美術制作の文脈について――」『美術研究』375号、東京文化財研究所、2002年3月、山梨絵美子「大正後期の洋画壇における東洋的傾向についての一考察」『日本における美術史学の成立と展開』(平成9−12年度科学研究費補助金[基盤研究(A) ]研究成果報告書、研究代表者・米倉迪夫)、2001年3月等を参照のこと。なお、印象派と南画の観点については山梨絵美子氏のご教示を賜った。■前掲注■、69頁。■前掲注■、431頁〜432頁。また岸田は「個人展覧会に際して」(『白樺』10巻4号、1919年4月、373頁)の中でも静物画について以下のように言い、この頃の岸田に物と精神との接近をみることができる。「僕の畫を虚心になつて敵意や反抗を持たずに、じつと心をしづめて見てゐる事が出来れば、僕の畫は見てゐればゐる程その人に段々深い言で話しかけるであろう。殊にこの事は僕の静物の時にさうだ。僕の静物にはセザンヌの様に容や質がないといふ人もあるが一寸見にはさう見へてもじつと見てゐれば、僕のかく林檎や器は中心から力がはり切つてゐる。たちそれは描いたものとしては全く不思議だ。全く実物と同じ質の力がそこにこもつてゐる。これは僕の精神の力が本当に人々の如何なる想像よりももつと以上に一色一筆にも籠めてあるからだ。」―295―謝辞作品調査に当たってご高配いただいた芦屋市立美術博物館・河]晃一氏、板橋区立美術館・西豊氏、下関市立美術館・岡本正康氏、そのほか作品をご所蔵の方々に感謝申し上げます。美術』4巻10号、1918年10月、78頁。
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