鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
309/535

b〕および三葉〔図2b〕の葉形をしており細部を細かい線刻で施す。林良一氏は宋代に愛用されることになるこの葉形を「宋朝系葉文」と呼んでおり(林良一1992,p.445)、本研究もこれにならう。保大元年(943)に建てられた南唐国李.と皇后宋氏の墓である江蘇省南京市欽陵の後室東壁に見える花文〔図3〕は〔図1〕と同様の花〔a〕と五葉形の葉〔b1〕をもち、花から三葉形の葉〔b2〕が出る。天福4年(939)の墓誌を共伴する呉越国銭元/妃馬氏墓である浙江省臨安市玲S鎮祥里村康陵の後室右壁に見える花文(杭州文物考古所・臨安市文物館2000−2)は、〔図1〕と同様の花文と三葉形の宋朝系葉文をもつ。北宋初期には良好な墓が残っておらず、類例は少ないが太平興国2年(977)に建立された河北省定州静志寺舎利塔地宮の東壁に見える〔図4〕は、五代の伝統を受け継ぐ牡丹文と宋朝系葉文が見える。―300―ことで当時の流行文様を検討できる。さらに北宋晩期に編纂された建築技術の専門書である『営造法式』の文様も考察対象とした。同書については、竹島卓一氏による詳細な研究(竹島卓一1970)があり、それを参照した。北宋の六代皇帝・神宗は建築統制を実施する考えがあったようで同名の書物の編纂が行なわれた。20年の歳月を経て七代皇帝・哲宗の元祐6年(1091)に完成したが大部のため応用できず、紹聖4年(1097)に将作監丞の李明仲に編纂が命じられ、崇寧2年(1103)に出版されるが、この崇寧本は伝わっていない。現在、通行している版本は、紹興15年(1145)に再版された紹興本の系譜に属するものだが、原刻はほとんど残っておらず、民国14年に南宋・紹興版を模して重版した-宋本である。そのため、図案に改変をきたしている恐れがあるが、先行研究では本書の図案を研究対象とし、北宋代の遺風を残しているとされ、本研究でも同書を考察対象とした。なお、図版については、筆者が典拠先より必要部分をトレースしたものを使用している。3.牡丹文の系譜(1)五代・北宋前半(907−1022)光天元年(918)に卒した前蜀王建の墓である四川省成都市永陵から出土した銅飾りに表された〔図1・2〕の花文〔a〕は、花芯を中心にして同心円状に花弁をもつ。葉は基部の両側左右に二葉ずつ反転し、長い葉脈つきの一葉をひるがえす五葉〔図1陶磁器の文様では、五代末とされる耀州窯青磁の鋭い浮き彫りによる〔図5〕があり、花文〔a〕は三弁からなる花芯、それを中心にして同心円状に並ぶ花弁からなり、三葉形の宋朝系葉文〔b〕をもつ(注1)。ほぼ同時期に磁州窯の掻き落としによる浮

元のページ  ../index.html#309

このブックを見る