鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―302―ようになり、元豊3年(1080)に埋葬された北宋皇陵にある慈聖光献曹皇后陵の石柱に見える〔図15〕などがあり、河南省を中心に類例が残っており、北宋後半に流行していることがわかる。同じく北宋後半に編纂された『営造法式』にも牡丹文〔図16〕が記されており、花芯を中心に花弁を配する花文〔a〕と五葉形の宋朝系葉文(b)が見える。そのほか、五代末・北宋前半の陶磁器には見られなかった文様が北宋中葉に現われ、〔図17〕の耀州窯青磁に刻花の花文〔a〕は、花弁をうず高く積み上げており、宋朝系葉文〔b〕は葉に切れ込みを入れ、同様の文様が印花文でも見える。磁州窯の〔図18〕にも同様の花弁を積み上げる牡丹が見え、両者の関係の深さを知ることができる。墓葬美術では、北宋晩期に比定される河南省洛陽耐火材料工場13号墓に使用された磚に、この形式の牡丹文〔図19〕がある。また、『営造法式』に見える〔図20〕は類似の花文〔a〕、切れ込みを入れる宋朝系葉文〔b〕をもつ。さらに、定窯の白磁には、この積み上げる牡丹文をもつ〔図21〕があるが、〔図17・18〕に比べて写実性が高い。定窯にはこれとは別に、〔図22〕の花文〔a〕があり、花芯を中心に細長い花弁を左右対称に施す。いずれも他の窯に比べて定窯の独自性を伺える文様であり、類似文様が北宋晩期とされる河南省洛陽耐火材料工場13号墓に使用された磚に施された花文〔図23〕、『営造法式』に施された細長い花弁をもつ〔図24〕の牡丹文がある。(3)小結〔図1・2・3〕に見える牡丹文は五代の各皇帝陵にある文様であり、伝統的な宮廷趣味を具現した文様と考えられ、五代末・北宋初めに至り耀州窯青磁や河南省にある磁州窯系の窯でこの文様が陶磁器に表される〔図5・6〕。この種の文様が北宋の都・東京(開封)に近い河南省の磁州窯系に見られるのは、宮廷趣味を具現した文様を表した陶磁器への需要があったためと考えられる。〔図8〕のような金銀器の文様は江南の越州窯〔図9〕に強い影響を与えており、蓮花文でも同様である。〔図7〕は〔図2・4〕の壁画などの文様のモチーフと細部の細かい細工は金銀器からの影響を看取でき、定窯白磁に表されたこの文様も宮廷趣味を具現していると考える。北宋中葉・後半になると剔花(浮き彫り)で施されていた文様が、刻花(片切り彫りや櫛描文など)で施されるようになる。これはより簡単に文様を施すためで大量生産を指向しており、ほぼ同時期に印花文での文様も見られるようになる〔図10・11・12〕。これは宮廷趣味を具現した文様の大衆化であるといえる。この大衆化された文様は、北宋後半になると北宋皇陵にも見られるようになり〔図15〕、官撰の『営造法式』にも同様の文様がある〔図16〕。大衆化された文様は他にも〔図17・18〕があり、

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