―315―剥落が部分的にみられ、変色が著しいものの、ヴェランダから窟奥の仏殿に至るまで完存している〔図4〜6〕。なかでも、興味深い点は、広間の天井画〔図4〕が2層になることで、広間列柱の完成前に、早めに天井画の制作に着手しようと下地を施し、天井を区画割りしたものの、列柱完成後、その区画割りが適当でないことに気付き、最初の区画割りの上からさらに一層下地を塗り、完成した広間列柱を基準に再度区画割りがなされたことがわかる。第4窟は、アジャンターの中で最大規模を誇る石窟で、ヴェランダの柱の形式から後期窟の中でも初期に造営がはじまったと見られるが、天井の崩落によって天井のレヴェル、それに伴って列柱の高さを変更せざるをえず、順調に造営を進めることができなかった受難の窟である。比丘の居住空間である房室の多くが未完成のまま放置されているものの、後廊側の広間列柱に施された精緻な装飾、さらに仏殿に刻まれた寄進銘を伴う仏三尊像から判断するに、一応の完成は見たようである。天井画としては、ヴェランダ右後壁「諸難救済観音立像」上方にのみラピスラズリおよびバーミリオンの鮮やかな円形文様が残るが、諸難救済図が後刻であること、またその上方の天井画以外に下地が存在した痕跡もないことから、現存する天井画は諸難救済図に付随することは明らかである。よって、本作例は考察からは除外する。第6窟下階は、広間に立つ面取のみの簡素な列柱と左右側廊を設けない構造、また後述する第16窟のごとく、前廊・後廊が広間の左右側壁よりもさらに奥深く入り組む構造から、後期石窟の中でも初期の造営とみられる。広間に並ぶ列柱〔図7〕は、木造建築を模してそれぞれ梁で繋がれているが、前廊側は梁が一段深く彫込まれ、広間との区別が明確に窺がえる。これら梁で仕切られた方形区画には円形文様や同心状の矩形装飾帯が取られるが、剥落が著しく文様の詳細までは判然としない。また、仏殿内の天井は仏陀の頭上に蓮華文を浮彫し、その周囲を格天井形式に区画割りし、植物文が描かれる。仏殿向って左方は比較的丁寧な描写だが、中央から右方にかけては簡素な花文で、前室の守門神像や仏伝図に比して描線も粗雑である。第7窟は、ヴェランダ外に張り出した二つのポーチとヴェランダの柱の形式から開鑿当初は第6窟よりも古い造営と見られるが、何らかの理由で造営が中断し、その間に前室と仏殿を窟奥に設けるプランが主流となり、また造営を急いでか、ヴェランダ後壁左右に直に房室を設け、中央に前室、その奥に仏殿を配する不自然な構造となったようである。またヴェランダ左右両端には二重の房室を構え、一貫しない構造を呈することから、当窟の開鑿事業それ自体が幾つかの異なる期間になされたことがわかる。とはいえ、ヴェランダ後壁にわずかに残る側壁画、特に右側壁画は絵具が殆ど剥
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