鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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戦文様の着物―325―研 究 者:北海道東海大学 国際文化学部 助教授  乾   淑 子1.研究史とその背景近代日本が西欧諸国と伍して生き残る上で、日清日露での勝利は決定的な役割を果たした。そして中国やロシアという外敵と戦うことで、維新の余波の燻る国内に、統一意識をもたらしたという点でも大きな歴史上のできごとでもあった。しかも近代的な国の体裁を整えることは、明治政府が西欧に認められるためにも必要であり、ただ戦争に勝利するのみならず、国民の支持の下での戦争遂行も重要であったはずである。戦争の情報を流すことには危険もあったが、大衆的な支持を得る上で有効であっただろう。当時の戦争に関する視覚的なメディアには錦絵、錦絵新聞、雑誌挿絵、幻灯、パノラマ館、絵葉書、双六、カルタ、陶磁器、ガラス皿などがあるが、中でも身近な、直接に身にまとう着物の戦争柄について長い間、等閑にふしてきたのはなぜだったのだろうか。その理由の一端は昭和20年12月に占領軍司令部から出された「神道指令」と通称される文書の第2項の施行細目a項に関係するかもしれない。「本指令はただに神道に対するのみならず、(中略)軍国主義的ないし過激なる国家主義的イデオロギーの宣伝、弘布を禁ずる。」として、そのb項では「関連するあらゆる祭式、慣例(中略)哲学、神社、物的象徴に適用される」(注1)とされる。戦後の物不足の折であっても、太平洋戦争のみならず日清以降の戦争柄の着物を着ることなどはできなかったであろうし、着る者もなく忘れられてみれば、その後はあまりに身近すぎる衣服という素材故に、他のメディアのようには学問的な研究対象とされなかったのだろう。ただし、最近まで全く無視された訳でもなく、1979年には近藤が言及し、1986年には公庄が、2002年には藤井が触れている(注2)。また、戦争柄の着物の存在自体はコレクターや古物商にはよく知られ、堀内、上田、大谷、田中、堀切、永田、林などの各氏のコレクションの図版に紹介されている(注3)。そして以上の各書に拙稿(注4)を加えるとそれぞれの発行年は1979、1986、1988、1992、1998、2001、2002、2003(2点)、2004(3点)、2005(3点)となり、近年この分野が注目されてきたことが了解される。

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