鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―326―2.明治の着物この種の着物を大別すると、明治からの成人男性の羽裏および縮緬の襦袢と、大正昭和のモスリンや木綿を主とする男児の着物とに分類することができ、成人女性の着物、襦袢、帯と女児の着物が多少加わる。日清戦争の頃は水色薄手の縮緬地に錦絵風の戦争場面を描いた例〔図1〕が多い。これは襦袢を見せるような着付けをする粋な職業、又は裕福な男性か、花柳界の女性が着用した。当時の襦袢地は男女兼用のものがあり、また襦袢、子供着、帯の図案は共通であることが珍しくない。戦争柄は大阪で始まったという記事が「風俗画報」に掲載されている(注5)が、この頃は10日もすれば注文の柄を染めた着物が出来たというから、すぐに東京でも同様のものを製作しただろう。当時すでに下火であった錦絵がこの戦で盛り返し、約500種が発行されたというが(注6)、そのほとんどは戦場の実際とは関わり無く想像で描かれていた。久保田米遷などの従軍画家による錦絵や画報も出版されたが、それらは例外であり、多くの錦絵には日本人のようなわらじ履きの清国兵が描かれたりするのが実情である。布の意匠も錦絵と同様で、将を中心とするような図柄で、江戸期の構図を借用して、軍装を近代風にしただけのものである。日露戦争時には関西、関東ともに盛んに戦争柄を染めたことを百貨店の広報誌などから知ることができ、新聞にも珍しい戦争柄の図版やその着物を着て凱旋踊りを踊る芸者の挿絵などが掲載された〔図2〕(注7)。また、その頃には錦絵風一辺倒の図柄ではなく、アールヌーボー風の戦場場面や、アールデコ風の兵士や兵器の文様化などもあり、地色はオリーブや葡萄色などで、地質も厚くなる。それについて意匠力の高まりを評価する向きもあり、1900年のパリ万博後の工芸界全体の新意匠への変革期であることを反映するかと思われる(注8)。〔図3〕は材質や全体の雰囲気と、階級章の星、金鵄勲章、野砲、弾薬車の形状から明治末の作と思われるが、錦絵の頃からは想像もできない程の抽象化、文様化が行われている。日露戦争時には絵葉書の大ブームが起こった。布にも戦争を描いた絵葉書を散らしたような意匠もあり、絵葉書の画面に類似したものもある。〔図4〕は鴨緑江と丘の遠景を描き、三八式野砲と兵を表すシルエットと近景の樹木とが画面を縁取る典型的なアールヌーボーの絵葉書に酷似する羽裏である。また、これは百貨店が競って広報誌を発刊した時期とも重なった。当時の百貨店の多くは元々が呉服屋であり、広報のかなりの部分を新しい反物の公告が占めた。三越の『時好』、高島屋の『新衣装』、白木屋の『家庭のしるべ』、松屋の『今様』などが

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