―327―珍しい意匠を競い発表した。現存する明治期の戦争柄の布の種類は確認した限りでは39点である(注9)が、百貨店の図版と新聞では42点(注10)を確認することができた。その中に重なるものは1点だけで、100年を過ぎて当時の布の過半数が失われていることが分かる。これは布という素材の当然の結果ではあるが、であるからこそ時代を証する資料として保存し、記録する必要があろう。3.旗文様日清から日露にかけての柄には旗をあしらったものが多く、日章旗と旭日旗、または旭日旗と錨の組み合わせで陸軍と海軍を表す。その意匠は当時の絵皿にも共通するものがあり、型ガラスにも交叉した旗の図柄などがある。色絵の皿の場合は錦絵風の絵付けでの旗が普通であるが、印判の皿、鉢、蕎麦猪口にも旗、桜、錨を組み合わせた柄が多数ある。〔図5〕には陸軍を表す赤い山形と海軍を表す青い波形と錨、陸軍軍旗である旭日旗と海軍の波と錨の旗、桐と菊がある。現在では皇室を表す場合には菊紋を用いるのが普通であるが、この時代には桐紋も同様に用いられており、例えば日露戦争に従軍した者が与えられた従軍記章にも交叉する陸軍軍隊旗と海軍軍艦旗と菊紋桐紋を見る事ができる。錨と桜を組み合わせる場合に大正中期以降になると桜の花は錨の中頃に描かれるが、この布では桜は錨の上部にある所から明治の図柄であると思われる。材質がいわゆる江戸縮緬と呼ばれる薄手の縮緬であることから推測される年代とも一致する。〔図6〕は木綿の紅板締めで海軍の波に錨の旗と旭日旗に桜である。この種の文様は主に兵士を相手とする妓楼の女性の襦袢用であったが、この作品は女性の着物の形に仕立てられている。通常は襦袢地で着物を作ることはなく、これは佐世保で収集されたことからも、やはりそのような世界のものであろうと思われる。同種の文様の絹製の紅板締めは京大阪では明治30年頃にはほぼ生産されなくなるが、金沢、関東などではその後も長く作られた。材質も綿であり、京阪以外の明治末の作と推測される。また、羽裏や縮緬の襦袢の他に絣による戦争柄もある。〔図7〕は久留米の軍艦柄の布団絣である。これは四幅に大きく描いた城で富貴を表し結婚の吉祥としたお城絣が発展し、軍艦による吉祥に変化したものである。鶴亀の代わりに日章旗と旭日旗を組み合わせた並幅もある〔図8〕。これに類似した旭日旗二つを交叉させた並幅の絣もあり、いずれも吉祥の戦争柄である。
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