萬鐵五郎による南画研究―336―――大正15年を中心に――研 究 者:九州大学大学院 人文科学府 博士後期課程 名 方 陽 子はじめに萬鐵五郎(明治18年〈1885〉〜昭和2年〈1927〉)は、大正期、西洋の最新の美術表現・技法を同時代的にこころみる一方で、大正10年(1921)頃から「南画」を研究しはじめた。翌11年から南画論を発表するとともに日本画を制作し、同12年以降から油絵の制作を再開した。とくに萬の言葉は、大正期における「南画」再評価の現象を日本の国家戦略としてとらえる研究においてとりあげられることがおおい。しかし筆者は萬の「南画」研究における言説を、帝国主義思想の影響というよりも、あくまでもその時代に生きるものの一般的な考え方であり、画家としてのアイデンティティの模索はむしろ制作態度や造形そのものの探求にあったとかんがえている。しかし、個性や個人の探求へむかう萬鐵五郎の活動は、西洋モダニズムを受容することのできた活動という「西洋対東洋」にはらむ権力構造の一端として単純にはとらえられない。日本が東アジアの国々に「地方色」「ローカルカラー」を要求するということは、同時に、「日本らしさ」や日本の「地方色」「ローカルカラー」の追求が日本の側につきつけられるということであり、こうした時代に生きる非官展系の一油絵画家である萬鐵五郎は内発的な個性の追求というかたちで自らのアイデンティティを模索せざるをえなかったとかんがえられるからである。本調査では、萬鐵五郎の南画研究の活動のひとつ、大正15年(1926)頃に開催された画会「鐵人會」に注目した。この画会については、大正11年(1922)にひらかれた同名の「鐵人會」が従来からよくしられている一方で、ほとんどしられていない。萬は同15年頃「鐵人會」のために数多くの作品を制作しており、同15年の画会の全体像をあきらかにすることによって同15年頃の萬の画業を体系的にとらえることができる。また、「鐵人會」のために制作された作品は、売り絵であったとしても、萬が南画研究のために制作したとかんがえられる。これまで筆者は、断片的に取りあげられてきた彼の理論と実践の両者をひとつの流れとしてみていくことで、彼が「南画」から学んだものは作画態度や造形そのものであったことを確認し、さらに同15年が彼の南画研究において独自の絵画表現をおおいに発揮できた時期であったことをあきらかにした(注1)。同15年頃の「鐵人會」の作品研究は、萬が南画を研究する過程で直面した日本画と油絵とによこたわるさまざまな問題をときあかすことへつながる。
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