―337―「鐵人會」をとおしてかんがえられる日本近代美術の問題である。本調査では、まずは「鐵人會」のために制作された作品であるかどうかという基礎的な調査を大正15年頃に制作された作品を対象におこなった。つぎに、該当する作品であれば、データベース化することを目的にその作品のデータを収集した。こうした「鐵人會」の再構成は、萬鐵五郎の画業の新たな一面をあきらかにし、その基礎資料のひとつになる。本報告は、今回の調査であきらかになった「鐵人會」の概要と、なお、萬は「南画」を研究するにあたり「南画」と「日本画」というふたつの用語をつかっている。両者はほとんど同義であるが、おもに、「南画」は理論を展開する場合、「日本画」は自身が水墨画や水墨に淡彩をほどこした作品を制作する場合というようにつかいわけられている。本報告では、萬にならって「南画」「日本画」という用語をつかっている。「鐵人會」の概要・「鐵人會」会員について従来、「鐵人會」に関する資料には大正11年(1922)の年記がある『會員名簿 鐵人會』と同年4月22日付書簡(注2)があげられ、それらの資料によって同11年7月8日から10日までに萬のパトロン的存在の野嶋康三邸で開催された萬鐵五郎日本画展のときに発足した画会とされてきた。どのような直接的なきっかけがあったのかは不明である。また、『會員名簿 鐵人會』の前半部分には野嶋康三や従弟の萬昌一郎そして19歳(明治37年)の時に参禅した両忘庵での友人田子一民をふくめた11名の氏名のほか、会費の納金月日が記されており、会費を12ヶ月おさめ終える満期に作品を頒布するという後援会的な性格がつよかったとされてきた。このように「鐵人會」は大正11年の活動のひとつとしてしられているが、さらに資料をみると同名で大正15年頃にもひらかれていたことがわかった。『會員名簿 鐵人會』のページをめくれば、「鐵人會」発足当初の会員名のあとに、あらたに1ページごとに24名の氏名と美術に関係する3社(アルス社、美術新論社、春陽会)の名前、そしてそれぞれに住所と納金年月日、金額、人によっては「配画済」という記録がつづいている。納金された年は大正14年から萬が死去する直前の昭和元年まで記録され、「配画済」のメモ書きは大正15年以降に記されているため、作品の制作と頒布は大正15年以降であろう。さらに、このときの「鐵人會」の資料として、萬が死去する直前の昭和元年もしくは昭和2年の納期が記された『鐵人會臺帳 東京の部』がのこっている。この冊子には、11名分の会員の住所、氏名、納入金額、納入年月日などがしるされ、納金を済ませた人には
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