鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―340―付けられるのであろうか。油絵の制作を再開した大正12年(1923)頃の萬の言説をとおして、萬が展覧会というものにたいしてどのような考え方をもっていたのかを探ると、既成の公募展にたいして反発心をいだいていたことがわかる。現実の画壇に於て、公表機関に就いて考えて見よう。三大団体と称すべきものがある。出品者は、監査なる関所を通過すべき事を条件とせられる事は皆人の知るところである。そして自信ある画家にとっては、何等恐怖すべき程の条件でもないでしょう。特に最近三大団体の鼎立によって如何なる流派の画家にとっても、その出品に困るという様なことはなくなった。これは実に喜ばしい事です。その外には個人展覧会の方法が残されてある。右の様に、三大団体及び個人展覧会の方法があるにもかかわらず人々の間には、自由に公表し得る、自力によって維持されるところの有力なる公表機関を要求することが強い。自分の事は自力によって解決したいとする要求が強い。此れは実に自分々々の上に権威を置きたいとする、熾烈な要求なのである。斯くの如き要求に醒めた芸術家は、吾々の他にも非常に多いことを知って居る。円鳥会は人々の強い要求によって生まれたのだと言ったのは、この点を言ったのです。即ち、吾々は会員組織展覧会の方法によって起つ事になったのです。三大団体は縦のものならば、円鳥会は横のものとして許さるべきである。会員は凡て平等な学位のものとして集まった。会員は絶対に自由に公表することを許される。猶吾々は、吾々の内規によって会員をふやして行くのである。(注4)この文章は、萬が大正12年に結成した円鳥会について自ら語った言葉である。陰里鐵郎氏が「三大団体」を帝展、二科展、春陽会展とし、円鳥会を会員だけのアンデパンダン展としたように(注5)、円鳥会は、審査もなく、共通の思想をもたない、つまり帝展、二科展、春陽会展とまったく逆の方針をかかげて結成された団体であった。このような団体を結成した背景には、萬の芸術家にたいする考え方、すなわち芸術家は「絶対に自由に解放された境地に立たなければならない。芸術家は、どこ迄も自由でなくてはならない」(注6)という考え方が根底にあったのだが、それはいうまでもなくアカデミズムに反発することによって成り立っている。今や人々よ、芸術派幾多の変転を経て、幾多のイズムを乗り越えて此処まで来た。はるばるやって来た、人々よ。―けれども見たまえ、此処は果てしなき曠野だ。

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