+「大東亜美術」について―26―「大東亜美術」が国家政策として浮上したのである。研 究 者:千葉大学 非常勤講師 千 葉 慶本稿は、「日本美術における「東洋」」に関する研究プロジェクトの一環として執筆されるものである。このテーマは近年のオリエンタリズム論の充実を見るまでもなく、多岐に亘るものであり、この報告で全てを述べることはできない。そこで本稿では、従来の研究では取り上げられることのなかった、1940年代前半における「大東亜美術」の展開を中心に論じることにする。1940年代は、近代日本において、常に公的制度の外側で展開されてきたアジア主義が国家主導により制度化された稀有な時期であった。1942年の大東亜省の設置は、アジア主義の制度化の最たるものといえよう。こうした制度化は、美術においても同様に指摘しうる。すなわち、「聖戦完遂」のために「大東亜美術」とは何か。これを明確に定義することは、容易ではない。なぜならば、1940年代において「大東亜美術」を論じ実践していた当事者にとって、「大東亜美術」は現在進行形であり、明確な定義をすることは不可能だったからである。ただ、無定義では議論は成り立たない。ここでは、「大東亜美術」に「大東亜共栄圏を表象=代表する美術」あるいは「大東亜共栄圏の実現を目的とする美術」という定義を仮に与えておくことにしよう。なお、以上のような二重の定義は、一義的には大東亜共栄圏という概念の二重性に因る。つまり、大東亜共栄圏とは『大東亜戦争事典』(1942)によれば「日満支を中心とし仏印、泰、マレー半島、ビルマ、東印度諸島はじめ西南太平洋諸島、ヒリツピン、さらに印度、濠州を加へたる広大なる地域」を指す地理的概念であるが、一方でそれは「従来の英米仏蘭の奴隷的搾取から解放し各々その民族をして処を得せしめ真にわが肇国の精神に基く道義秩序の建設」という未だ成らざる理想的共同体を示してもいる。ここには、ザインとゾルレンという二重の規定を確認することができよう。従って、「大東亜美術」も同様の二重性を有する(注1)。なお、本稿は、「大東亜美術」に関する最初の研究論文である。従って「大東亜美術」の本格的分析というよりも、分析の前提となる歴史的事項を確認する概説的作業が中心になることをあらかじめ断っておく。「大東亜美術」について論じる前に、前史として「日本美術」の成立から「東洋主義」を経て「大東亜美術」が登場するまでの展開を概略しておくことにしよう。北澤憲昭、佐藤道信、高木博志らが明らかにしたように、「日本美術」は明治初中
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