―341―けれども聴きたまえ、此処は何等の約束もないのだ、有難い事に。――歴史博物館はない、美術館もない、―そして約束を乗り越えた、じかの生活があるばかりだ。古典よりはるばるやって来た、Xへ。けれども又地殻は朽ちる、土は老いる。しかし吾等はやはり吾等だ。時は動く、その速力に安座して、古典よりはるばるXへ、つつしめよ、吾等は墓物を探す愚かな旅人ではない筈だ。(注7)この文章は、大正12年の「円鳥会展作品目録(第一回)」に書かれた言葉である。ここでは萬が反アカデミズムの姿勢をもって円鳥会の結成にのぞんでいることがうかがえる。なにが萬にこのような姿勢をとらせたのか。ひとつは、大正10年(1921)10月に開催された官設展覧会の帝国美術院美術展覧会に落選したこと、いまひとつはアカデミズムとは一線を画する分野を担っているという自負ではないだろうか。その自負は年下の世代からの信望が扱ったことにもよるだろう。たとえば、大正12年(1923)にアクションを開催したメンバーのひとりである中川紀元(明治25年〈1892〉〜昭和47年〈1972〉)はアクションの仲間のなかに萬の参加を希望する声もあったこと、中川自身が萬に尊敬の念をいだいていることを述べている(注8)。また、萬は作品を発表する場の画会として円鳥会のほか「人天社」という画会も昭和2年頃にひらく予定で、そのメンバーは円鳥会のメンバーよりもさらに年下の世代であった(注9)。東京美術学校卒業後すぐに反官展の団体であるヒューザン会の創立に参加し、東京美術学校時代の先生である黒田清輝の世代を批判するなど、つねに反官展、反アカデミズムという立場で活動していた萬が、積極的に年下の世代と画会をひらこうとしたのも、反官展、反アカデミズムという立場において自分がリーダー的な存在であったことを自覚していたからではないだろうか。このような画壇の状況を概観すると、萬鐵五郎の世代は、まさに反官展、反アカデミズムといった「在野」をつくりあげてきた世代としてとらえられる。さらに、作品を公表することについて述べた次の文章は、「鐵人會」もまた反官展、反アカデミズムの画会をつくるためのひとつの方法であったことが推測される。只現在の事実として、吾吾は何故に作品を公表しなければならないでしょうか。それは、公衆の中に、芸術家としての自己に対する共鳴者を見出そうとする事の外には、あまり多くの目的がない様だ。芸術家がその作品を公表するのは、実に、自己に対する共鳴者の発見を目的とした対他的行為の問題であると考えられる。対他的
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