鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
351/535

注※『鉄人画論』(中央公論美術出版、昭和60年)拙稿「萬鉄五郎《水着姿》と南画研究」『デアルテ』20号、九州藝術学会、2004年、39〜60頁 大正11年4月22日付書簡(『萬鉄五郎書簡集』萬鉄五郎記念美術館、平成11年、84〜85頁)■「黎明風景」の調書には「キャンバス裏に「鐵人會…」とあるが判読不能」と記録されている。■萬鉄五郎「円鳥会展覧会に就いて」『東京朝日新聞』大正12年6月3、5日付(『鉄人画論』)―342―「地方色」を要求していた。つまり、日本は必然的に日本の「ローカルカラー」や「地方色」そして「日本らしさ」とは何かという問題を自問せざるをえない状況を自の問題に於て、芸術家にとって共鳴者を発見することより以上の喜びは沢山ある筈はない。共鳴者の発見は実に精神の喜びです。(注10)ここでは、芸術家が作品を公表するということは公衆に共鳴者を見いだすことであるという。人と人とのつながりによって結成された「鐵人會」は、まさに反官展、反アカデミズムの「在野」をつくりあげようとした萬の考えを実現するものであったといえるのではないだろうか。おわりに以上のように、萬鐵五郎にとって「鐵人會」がどのような意味を持ったのかという問題は、日本近代における「アカデミズム」と「在野」という中心と周縁の構造がどのようにつくりあげられたのかという問題へつながる。今後、「鐵人會」のために制作された作品がより多く見出され、「鐵人會」をとおしてかいまみえる萬を中心とした人的ネットワークがあきらかにされることで、さらに「鐵人會」の内実があきらかになるにちがいない。そうしたうえで、「鐵人會」用の作品が南画研究の過程で制作された作品であることをあらためてかんがえる必要があるだろう。萬の油絵のなかに近代的な都会風景をえがいた作品が少ないことはすでに指摘されている(注11)。技法的にはフォヴィスム風やキュビスム風などの影響を色濃く受けているようにみえたとしてもえがかれた風景は都会らしい風景ではなかった。「南画」再評価の現象において「南画」が画家の個性や内面の表出という点において西洋モダニズムとの共通点がみいだされた一方で、日本帝国は朝鮮美術展覧会において「ローカルカラー」やらつくりだしていた。萬鐵五郎の「鐵人會」用の作品は、萬鐵五郎という一「在野」の油絵画家のアイデンティティと国民国家日本のアイデンティティが模索されていく様相をときあかすことができるようにおもう。

元のページ  ../index.html#351

このブックを見る