鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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<間部時雄の水彩画作品における「亦可」印の謎について研 究 者:府中市美術館 学芸員  志 賀 秀 孝―347―<はじめに>今日最もよく知られる日本近代水彩画の名品のひとつとして、浅井忠がフランスで制作した一連のグレー村シリーズがあげられる。パリの南西70キロにあるグレー村はゆったりと流れるロワン川にほとりにあり、みずみずしく、清楚で、緑豊かな田園風景は、今日も100年前と何ら変わらぬ佇まいを残している。ロワン川に張り出した洗濯小屋を写した浅井忠の《洗濯場》や《グレー村の教会》などの水彩画は、日本近代美術史の上において、極めて高い価値がおかれる名品となっている。浅井忠は、東京と京都において多くの門人を育成したことで知られる。しかし、浅井のグレー村シリーズにみえる水彩画の高い画境がどのように後身に受け継がれたのかを辿る上で、現在大きな問題が生じている。つまり、浅井忠の作品の特定が明瞭にしえない状況にあるのである。浅井忠の指導した後身には、多くの優れた水彩画家が輩出した。京都高等工芸学校において、間部時雄、霜鳥正之助、加藤源之助、長谷川良雄など数々の浅井忠様式の水彩画家が育ったのである。また同僚の牧野克次も浅井風の水彩画をよくした。その結果、浅井忠の周辺には多くの浅井流の水彩画家がおり、水彩画は、短時間に紙の上に水彩で描く比較的簡便な技法によって描かれること、また浅井忠が指導するスクール内での学生達の習作(浅井忠の作品を原画として模写する)の存在が容易に考えられること、それぞれの作品に必ずしもサインや年紀が付されてはいないこと、などから、浅井忠の水彩画作品には、浅井自身の手によらない浅井風の水彩画作品が多数存在する可能性があり、作品の特定にはよほどの注意が必要であるという状況にあった。実際に、浅井忠の周辺の関係者と目される人々によって、浅井以外の作品に不自然な筆跡の「C. Asai」のサインや裏書きがなされた例もあったのである。こうした状況の中にあって、さらに門弟の間部時雄の作品に「亦可」(またか)と読める朱文方印が押され、この同じ印が、かき消されたり、その上に鉛筆のMakinoいては、浅井忠風の水彩画作者の同定作業が混乱を来したが、これは明治期の水彩画全体への不信感にもつながり、水彩画作品は極めて高い画境を示しながらも、従来は直截な評価の対象とされてこなかった。この原因は、繰り返しになるが、間部時雄作品などにみられる「亦可」印の意味がやMabéの鉛筆サインが施されたりした例も発見され、事態はますます混迷した。ひ

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