鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―348―解明されていないことに起因しているといって過言ではない。明治時代の水彩画全体に関する重要な問題として、ここに「亦可」印の謎が浮上する。<牧野克次と間部時雄>これまでの調査結果を踏まえて牧野や間部の周辺環境を時系列的に振り返ってみたい。・牧野克次(注1)は、浅井忠とともに京都高等工芸学校の創立者の一人である。浅井よりも8歳年下ではあるが、1888年に東京・小山正太郎の不同舎に学び、1896年から大阪高等工業学校に赴任し、1901年には関西美術会の創設に松原三五郎や山内愚仙と関わり、1902年京都高等工芸学校の助教授となった。間部よりは21歳も年上で、京都高等工芸学校では浅井とともに間部の指導教師であった。今日残された牧野の代表作は、大作《落葉》(明治36年(1903)、油彩・キャンバス、京都市立美術館蔵)のみである。優れた水彩画が数点残されている他は、その作品の大半は不明である。1906年から1913年までニューヨークの美術学校で間部の同級の霜鳥正三郎(後の之彦)を伴ない美術研究を行った。アメリカから帰国した後は、居を東京へ移した。大正9年には、自身の作品集を持って台湾で展覧会を開き、この作品展への出品作品を『天平画集』として、大正14年(1925)に出版している。この画集は現在、国会図書館に残されていた。実は、この図録のいくつかの作品に本稿で問題となる「亦可」印の押された作品がある。台湾における牧野作品の所蔵が期待され、実見したいと考えた。台北故旧博物院に調査の依頼を行ったが、今回は残念ながら牧野の実作の所在は確認できなかった。しかし、台湾における牧野の足跡は、新聞紙面に記載があり、いくつか足取りが確認できた。なお、時間をかけて調査を継続することで、いずれ作品の所在が確認できるものと思われる。牧野克次は、この画集を出してからの17年後の昭和17年(1942)に没した。・間部時雄(注2)は、熊本から京都へ居を移しながら工芸を学んだが、京都高等工芸学校が創立されるのを聞くと、すぐさま入学した。京都時代の間部は、浅井とともに牧野にも大いに感化を受けたのであった。年齢は一つ下であるが東京から浅井を慕って霜鳥之彦らが同校に入学してくる。講師として都鳥英喜もまた東京からやってきたのであった。明治36年には、聖護院洋画研究所が浅井の自宅に設置される。ほどなく武田五一が京都高等工芸学校の講師を勤め、一つ年上の長谷川良雄が入学する。間部は関西美術会展にも盛んに出品を続け、入選を果たし、いくつかの賞も

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