―349―受賞した。明治38〜9年には、赤坂離宮の壁装飾で浅井の助手を勤め、関西美術院が開院すると指導にあたった。この頃すでに、浅井の強力な助手となっていた。また関西美術院の教授となった明治43年(1910)に、大阪の著名な画塾「天彩画塾」の主宰者松原三五郎の次女と結婚した。明治45年には、大正皇后の服地をデザインするなど、明治40年に師の浅井が急逝する他は、明治末の間部はまさに順風満帆の歩みを見せていた。大正期に入っても、農商務省展覧会で幾度も受賞を果たしていた。大正9年に霜鳥が帰国した同じ年、間部は海外留学を命じられる。イギリス、フランス、スイス、イタリア、ベルギーへの二年間(実質は足かけ5年間に渡る)であった。大正9年から14年までヨーロッパ各地を巡り、特にゴッホ終焉の地となったオーベル シュル オアーズにおいてドクトル・ガッシェの息子、ポール・ガッシェと知り合い、交遊関係を深めていくうちに、ガッシェを通じてゴッホとセザンヌから強く影響を受け、銅版画技法を体得した。・間部の留学中に、霜鳥は京都高等工芸学校の教授となっていた。間部は帰国した大正14年(1925)に京都高等工芸学校の教授を辞し、一転東京へと居を移したが、それは同校の教授職をめぐる行き違いがあったためか。或いは留学中にサロンへの入選を果たし、画家(あるいは銅版画家)としての自信を深めた結果なのかもしれない(注3)。東京では白日会での活躍と、中国陶磁への興味や中国訪問の他は、これといった動向は不詳である。間部時雄は昭和43年(1968)に82歳の生涯を閉じる。間部の全作品は、遺族の元でアトリヱとともに一括して保管されていたという。いうまでもなく、京都から東京への転身は、間部の生涯を振り返るとき、謎にみちている。<間部時雄没後の動き>・没後14年が経過し、『熊本の近代美術』展が、熊本県立美術館で昭和57年(1982)に開催され、間部の作品《庭》(昭和3年)他が出品された。さらに没後21年が経過した平成元年に間部時雄旧蔵水彩画及び銅版画原版が売却されると、すぐに一括購入された作品によって、『間部時雄(展図録)』(藝林・中村画廊、平成元年(1989)4月)が開催され、世に間部作品の全貌が公表された。この展覧会に関する展覧会評を岡部昌幸が「間部時雄展─隠された水彩画 間部時雄と牧野克次」(注4)として発表した。ここではじめて、牧野作品との混同の可能性が指摘され亦可印の問題がとりただされた。が、問題が解決されぬまま、間部時雄の作品は各
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