鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―350―地に渡った。なお現在、間部時雄作品を所有する機関及び個人は、京都工芸繊維大学、京都市立美術館、京都国立近代美術館、郡山市立美術館、名古屋、長野、東京の個人収集家、府中市美術館などである。さらに2年後の平成3年(1991)に『間部時雄』が三重県立美術館市民ギャラリーで開催され、12年後の平成15年には『浅井忠「光」の系譜 間部時雄と京都の仲間たち』が府中市美術館で開催されたのである。<「亦可」印について>「亦可」印の謎については、拙稿(注5)において追求しきれなかった作品に、紙の質、裏サインの有無などについて再調査を行った。その結果を総合すると、以下のようになる。「亦可」印のある《田中村の夕》はK. Makinoのサインを消しゴムのようなもので消し、T. Mabéの書き込みがされている。この事実について様々な可能性が岡部氏によって検討された。作品交換説、共同製作説、共作への後年間部サイン記入説等である。いずれも間部の悪意を示唆した説ではない。間部の浅井、牧野両氏への敬愛の念が強かったという事実があったからである。亦可印のある作品17点を調べても、この《田中村の夕》のような状況の作品は他に1点も見あたらなかった。結果としては、作品の様式によって区分すると、さほど複雑な状況はなかったのである。まさしく《田中村の夕》は例外中の例外といってよかった。もとより、紙質のみで作家を限定するわけにはいかないが、牧野様式と思われる作品は透かしのある水彩専用の上質な洋紙であることが多かった。つまり高価な洋紙を用いることができた画家の手になるものといえることが、わずかな傍証の一つとなりえよう。調査の過程で、さらに重要な問題が浮かびあがった。間部、牧野作品以外にも「亦可」印が存在することが判明したのである。具体的には、霜鳥之彦(注6)の作品《民家のある風景》に「亦可」印が確認でき、さらに言えば、間部、牧野作品以外にも「亦可」印が存在する可能性があるということである。この霜鳥作品は、霜鳥存命中にかつて自身が奉職した学校に寄贈されている。こうした状況下で、画家が自作を学生の参考にと寄贈する場合、他人の、つまりここでは、間部か牧野かの作品を自身の作品だと偽って寄贈する必要などあろうか。そのような画家が存在するとは考えられない。さらに、その作品は、まさに霜鳥の柔らかな量感をたたえた霜鳥様式の作品なのである。また、間部周辺の水彩画家、加藤源之助(注7)や長谷川良雄などの作品もそれぞれに浅井忠とはことなる様式を示していることが看取できる。

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