鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―27―期に近代国家の文化制度として創出されたものである(注2)。開国によって近代世界システムへの参入を果した日本は、その出発時点で不平等条約というハンデを背負わなければならなかった。明治期の近代化政策は、欧米を規範とする国家制度を確立することを通してハンデの克服を目指すものであった。一連の近代的国家制度の中でも、美術制度は、日本の主権的独立性(文化の独自性)を文化的に規定するものであり、日本が欧米並みの政治的地位を確立しかつ欧米と覇権を争うためには欠くことのできない重要な制度であった。「夫レ美術ハ国ノ精華ナリ」と書き起された『国華』創刊の辞(1889)は、美術とナショナリティとの密接な関係性を端的に表している。「日本美術」とは何かという初発の概念規定において、重要な位置を占めるのはアーネスト・フェノロサの議論である。フェノロサは1882年の『美術真説』において、日本の「真誠ノ画術」を「油絵」(西洋)と「文人画(南画)」(中国)に挟まれたものとして定義した。フェノロサの定義は、そのまま岡倉天心に引き継がれ、南画と西洋画を排除した東京美術学校の創立という形で制度化されるに至る。「日本」とは「非西洋」であり「非中国」であるという文明論的「日本美術」観は、基本的には近代を通じて一貫して主張された。その一方で、日清・日露戦争を経て帝国化し「東洋の盟主としての日本」という意識が高まるにつれ、これを受けたアジア主義的な日本美術論が新たに登場することになる。早い例では1899年に執筆された『稿本日本帝国美術略史』序文に「東洋の宝庫たる我日本国民」こそが東洋を代表する資格を持つという認識が現れている。また、1910年代にはかつて岡倉天心やフェノロサによって「国民観念の代表物たる美術」に相応しくないとされた南画が、近代的美術として再評価されるに至る。この再評価に関しては別の場所ですでに詳しく論じたが(「日本美術思想の帝国主義化」『美学』第213号、2003年)、南画を日本美術の財産目録に再編入することに、日本の帝国化(中国支配への欲望)が深く関わっていること、南画を「東洋」の近代美術として再評価することには西洋美術への対抗意識が横たわっていることは明らかである。1920年代において洋画家・萬鉄五郎が提唱した「東洋主義」は、この南画の再評価を踏まえたものである。萬は、南画を近代における抽象芸術の先駆として捉え、南画の実践によって「世界の画壇に於ける本流」に立つことを目指した(「本間氏の白龍論及び南画に就いて」『中央美術』1922.4)。なお、南画を大幅に取り入れた洋画様式は、萬の周辺に止まらず、1920年代から30年代にかけて画壇を席巻する。日本の帝国化は、中国と西洋に挟まれた日本美術というフェノロサ=岡倉的命題を、日本美術が中国を自己のものとして馴致し西洋に対抗するという新しい公式によって超克する

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