―351―再び、「亦可」印のある作品を振り返ってみると、「亦可」印のある作品は、極めて優れた作品であることに思い当たる。「亦可」とは、可とすべき良質の作品を示す意味ではないだろうか。「亦可」印のある作品の裏面には「The Field. Kyoto」などの英文タイトルが多い。この「亦可」とした作品はどこかで展示する、もしくはアメリカに携えていく目的で彼らが選別した良質な作品であり、英米人に画題を示すために、裏面に英文でタイトルを付したと考えれば、英文タイトルが墨書されている意味も理解できよう。間部、牧野の作品の混濁と捉えるよりも、さらに広い範囲に「亦可」印が押印された可能性が浮上してくるのである。<別問題の存在>ところで、調査中にさらに興味深い事実を知った。近年、アメリカ方面から1点の「亦可」印のある水彩画が某所にオファーされたという。作品には当初「Kawashima」とサインがあった(注8)。作品のオファー時の大判写真には、くっきりとサインが見える。けれども数年前まであったサインが現在では、跡形もなく消し取られてしまっている。よく見ると、極めて微細な針穴のような傷がサインの上に確認され、このサインがあった事実を知った上で、現在の作品を観察してはじめて以前Kawashimaのサインがあったことが理解できるのである。全く神業としかいえない。この事実こそ、明治美術の水彩画の正確な研究を阻害する、極めて悪質なものである。そしてこうした悪意がこれまで存在していなかったとは言い難い。けれども、これは「亦可」印があれば、即ち『天平画集』にみる牧野克次の作品にちがいないとする盲信が生んだ悲劇であろう。また、これまで間部、牧野の作品混濁という風説が悩ましい環境を形成しており、その打開の妙手として考えられたものかもしれない。上述の「亦可」印は、特定の画家作品に押印されたものではないと考えれば、今日の混乱は現代の我々の錯誤でしかない。「亦可」印のある間部作品に鉛筆で「T. Mabé」とアクサンテギューのéを用いたサインで書かれたものが多いことから、間部がフランスから帰国した以降に鉛筆サインを自ら入れたと考えることが自然である。サインの改竄は、国内で行われたのではなく、海外でなされた可能性も検討すべき余地が生じてくる。なぜなら、牧野克次は国外においては、よくその名が知られ、評価も高かったからである。この場合も、明治期の美しい日本の風景水彩画が誰の手になるものであったのかという事に関心があったのは、日本人ではなく海外の愛好家で
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