注<牧野克次> <間部時雄>―352―あったとすれば、なおこの周辺にあまり注意を払ってこなかった我々の問題でもあったとさえ言えるかもしれない。明治の水彩画における作者の同定は、確かにサインの消し取り、サインの入れ直しが数点に限って確認できたが、結局は今後ともサインに左右されることなく作品の様式識別を積み重ねる事で判断していくべき問題であると考えられる。末筆ながら、今回の調査に快くご協力くださった多くの方々に対して、心より深く感謝申し上げる。牧野克次(まきの・かつじ)元治元年(1864)大阪に生まれる。明治10年代に小学校の教員をしながら守住貫魚に日本画を、守住勇魚に洋画を学ぶ。明治21年(1888)上京、小山正太郎の不同舎に入門。明治29年(1896)静岡師範から大阪高等工業学校に転任、大阪で作家生活に入る。明治34年(1901)松原三五郎、山内愚仙とともに関西美術会の創設に参加。同年関西美術会第1回批評会で「山村秋興」が一等賞。明治35年(1902)京都高等工芸学校の創設にともない、同校助教授となる。同年第8回新古美術展覧会で「秋林」が三等賞銅牌受賞。京都の自宅に画塾を開く。明治36年(1903)大阪で開催の第5回内国勧業博覧会の審査官となり、「落葉」を出品。明治37年(1904)澤部清五郎とともに宇治平等院の天井画の補修に従事。明治38年(1905)関西美術院創立の発起人の一人となる。明治39年(1906)霜鳥之彦とともに渡米。ニューヨークの美術学校で水彩画を教える。明治43年(1910)一時帰国の後、澤部清五郎に従い渡米。大正7年(1918)帰国後東京に移住。昭和17年(1942)死去、78歳。画号を天平堂、又は天平と称す。明治18年(1885)熊本県益城郡に生まれる。明治35年(1902)京都市染織学校を卒業し、京都高等工芸学校図案科に入学。明治38年(1905)同校を主席で卒業。この間、浅井忠に学び、助手をつとめる。卓抜な水彩画を描く。明治39年(1906)京都高等工芸学校助教授に就任し、さらに関西美術院の設立に参加、指導にあたる。明治43年(1910)関西美術院教授となり、松原三五郎の二女、福と結婚する。大正9年(1920)文部省より絵画研究のため、海外研究員を命ぜられ、ヨーロッパ各国を歴遊する。大正14年(1925)帰国後、京都高等工芸学校教授を辞任し、東京へ居を移す。昭和2年(1927)白日会会員となり、その後没年まで出品を続ける。この間洋風版画協会の設立に参加、会員となり、6年日本版画協会会員となる。中国各地への旅行
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