鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―28―という思想実践を生み出したのである。ただし、こうした東洋主義の有効性は、日本が東洋を代表する唯一の存在であるという信念に裏付けられたものである。1920年代後半における中国ナショナリズムの勃興は、「東洋」における日本の覇権を危ういものにする。事実、西槙偉によれば中国に輸入された日本の東洋主義は即、中国美術至上主義論に読み替えられた(注3)。1930年代に児島善三郎らの独立美術協会が提唱した「新日本主義」は、このような事態への対抗というわけではないが、結果的には単純なアジア主義の陥穽を克服するものとなった。児島の議論の特徴は、「西洋の物質と東洋の精神との融合」を謳っている点にある(「新日本主義に就て」『アトリエ』1935.5)。これは、「我が国民の使命は、国体と基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献する」という『国体の本義』(1937)の議論を先取りしている。「日本」とは東洋と西洋の合一であるとする議論は、フェノロサ=岡倉的命題に対する一つの優れた回答だったわけだが、差異化によって「日本」を規定するために必要な他者の存在を消失させてしまった。従ってこれ以降、純粋な「日本」を規定する議論では、「天皇」という超越性を持ち込むしかなくなってしまうのである。以上の流れを踏まえて「大東亜美術」を論じることにしよう。「大東亜の美術」の提唱は、早い例では日中戦争時の荒木十畝「東亜建設と日本画」(『大阪時事新報』1939.1.6)に見ることが出来るが、これが本格的に米英(西洋)に対する文化戦の理論として論じられるようになるのは、「大東亜戦争」の開戦以後である。浅利篤「美術精神の復興」(『新美術』1942.4)は、開戦によって従来の美術が「日本美術と呼称せられたる過去を超脱し大東亜美術の確立と言ふ飛躍を以て目的とせねばならない場面に対してゐる」と論じている。さらに浅利の別稿にある「量的には大東亜美術圏」「質的には真の意味に於ける国民美術の確立」という表現(「最近美術界の動向」『生活美術』1942.6)を踏まえるならば、「大東亜美術」とは、「日本美術」に量的拡大のみならず、質的変化を齎すものとして捉えられていたことがわかる。この概念規定に内在するアジア主義(西洋に対抗するため、外なるアジア文化=他者を包摂し、自己を拡張する)でありながら日本主義(内なる他者を排除し、自己を純化する)であるという矛盾は、「大東亜美術」の出発点であり、その後の「大東亜美術」の思想的展開はこの矛盾の解消(隠蔽)に自ずと向かうことになった。さて、「大東亜美術」の特徴として注目すべきは、「大東亜文化」の確立を政治的目標と定める国策との密接な結びつきである。1942年1月、内閣に設置された大東亜建設審議会は「大東亜建設ニ処スル文教政策

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