―368―の挿絵が、18世紀末に紹介されたという事実は注目に値する。というのも、1793年刊行の版につけられた挿絵〔図7〕では、人物や背景表現、異時同図など、ラファエッロ派の構図がほぼそのまま借用されており、1787年版と多くの共通点がみとめられるのである(注29)。一方、1788年版(注30)の下絵〔図6〕を描いたマリリエは、挿絵専門の画家であった(注31)。レオーは、挿絵の黄金期の裏付けとして、コシャンやエイゼンのような下絵画家と、それを版刻する版画家との密度の濃い協力関係を指摘している(注32)。マリリエもそのひとりで、ここではローネーという非常に評価の高かった版画家(注33)に下絵を託している。描かれているのは「アモルに逃げられるプシュケ」で、絵画作品においては、コワペル親子(1701年と1748年)やブーシェ(1741−42年)、プリュードン(1784年)に見られるが、挿絵において、この主題をクローズアップさせて描いたのはマリリエが初めてであった。この時期、サロンにおいて「捨てられたプシュケ」が流行した事実とも無縁ではない。また、プリュードンの素描とマリリエ挿絵を比較すると、マリリエが構想過程でプリュードン作品に触発されたことは否めない。両者の接点については今後の研究で実証したいが、サロン絵画と挿絵芸術が互いに連関し合っていたことを示す初期の作例と考えられる。さて、以上のような絵画と挿絵の関係は、革命直後の1790年代、ピエール・ディドという出版業者の登場によって、ますます強められていくこととなる(注34)。ピエールは、18世紀初めより活躍していたディド家の出版事業を1789年に引き継いだ。それからまもなく、古典本を豪華な挿絵付きで復刊する事業に着手する。挿絵の芸術的地位向上という目的を果たすために、ディドが主な仕事を依頼したのが、J. -L. ダヴィッドとその弟子たちであった。1797年にジェラールの挿絵付きで刊行されたラ・フォンテーヌのプシュケ物語も、そのひとつであった(注35)。ジェラールの4点の挿絵は、画家がダヴィッド門下におけるアカデミックな修業の中で培ってきた新古典主義的画風を、挿絵本という媒体で開花させたことを物語っている〔図8、9〕。ジェラールは、この挿絵制作と平行する形でサロン出品作を完成させており、両者の深い影響関係について報告者はすでに指摘してきた(注36)。ここではさらに、画家が、ピエール・ディドを通じて、結局刊行には至らなかったボレルのプシュケ挿絵(1792年頃)(注37)を参照した可能性が高く〔図10〕、同時代の挿絵と絵画という異なった芸術ジャンルにおけるプシュケ図像が、実は1本の線で結ばれていたという事実をもうひとつの新知見として指摘したい(注38)。
元のページ ../index.html#377