―29―答申」(1942.5.21)において「日本文化ヲ顕揚シ広ク其ノ優秀性ヲ認識セシムル」ことと同時に「内地ヨリ優秀ナル学者、研究者、技術者ヲ派遣シテ現地有識者ト共ニ文化ノ向上ヲ促進シ渾然タル大東亜文化ノ創造ニ培フ」ことを政治的目標として提言した。また、大政翼賛会の第三委員会が作成した「大東亜共栄圏建設に伴う文化的対策」(『調査委員会報告書』大政翼賛会1942.7)では、日本文化を中国や南方に紹介することを通じて、日本の「偉大さ」を伝え、日本文化に「憧憬」を抱かせることが目標とされた。さらに、文化科学研究所を設置し、「東亜民族結合を促進すべき共通文化」および各国文化を研究することが求められた。「大東亜文化」では、一方に日本文化の海外宣伝、他方に東亜の共通文化の確立が目標として定められた。ここでも「大東亜美術」の定義と同様、日本主義とアジア主義の両立を確認することができる。こうした政府の方針を背景に、各学問分野で「大東亜文化」確立への模索(大東亜文化運動)が起こっている。同時代には、例えば「大東亜文学」「大東亜民俗学」「大東亜建築学」「大東亜舞台芸術」「大東亜博物館」などの議論を見ることができる。「大東亜美術」に関する議論もまた同じ流れにあるが、必ずしも政府による「大東亜文化」の提唱に便乗して起こったわけではない。以下で論ずるように美術界においては「大東亜文化運動」の先駆と言い得る動きを見出すことも可能だからである。では、「大東亜美術」を実践した美術団体について論じることにしよう。ここでは、小室翠雲が代表を務めた大東南宗院(1941.8結成)を中心に取り上げる。「大東南宗院趣旨」(『南画鑑賞』1941.9)によればこの団体の目的は、「聖戦目的完遂の最重要項たる東亜共栄圏確立への一寄与として、絵画芸術によつて日満華三国間の完全なる理解握手に達する道程を築かんとする文化交流の運動」を行なうことにある。同団体では、南画を日満華三国の共通文化として同定し、これを通して三国相互の「理解と親和」を追求した。こうした発想は東洋主義の延長上にある。同団体の主な活動方針としては、第一に「日満華三国の主要都市において、大東南宗院展を開催」すること、第二に「国体精神作興のために、随時勤皇先覚志士の事蹟遺墨展を開催」すること、第三に「東洋文化芸術闡明のための学芸研究所を設置」することが挙げられた。この活動方針からはアジア主義と日本主義の両立という「大東亜美術」の特色を見出すことができる。なお、同団体は、大政翼賛会による後援を受け、顧問には清浦奎吾、頭山満、荒木貞夫、松井石根、徳富蘇峰ほかの政治家・要人が就任するなど、政治的色彩の濃い団体だったといえる。こうした背景から、同団体の活動を政府による「大東亜文化」の提唱の先駆として位置づけることは十分可能であろう。
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