鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―377―2 目録に反映されていない情報【目録】に示された神原の記述ですら、すでに膨大な研究資料であるが、それを補完する意味でも見逃せないのが、文献に挟まれた神原のメモや新聞などの切り抜き、また書き込まれた献辞や、蔵書印、蔵書者名など文献の来歴に関わる情報である。こうした情報に関わり、私が特に注目したのが、【目録】中の神原の記述が、主語として、『私』ではなく『われわれ』の語をしばしば用いていることである。確かに1910年から1930年代中頃までの神原の活動は、常に組織体としての活動であったゆえ『われわれ』の語こそが実感にふさわしいものであろう。しかし、この『われわれ』とは、具体的にいったいどのような人的ネットワークを指し占めしているのであろうか。そこでまずは、【目録】への記載はおろか、【文庫】寄贈にあたって大原美術館が行った受入れ作業の際にも見落とされている、こうした情報の再収集と、それを広く活用するためのデーターベース化に着手した(現段階では各情報の確認を終え、写真と文字情報のデジタルデーターによるデーターベース作成に取り掛かっている)。また、各資料の紙間に潜むデーターの収集と平行して、そのデーターから想定される『われわれ』の構成員と、そうしたネットワークが担った同時代西欧の前衛的な美術活動についての情報収集の実態を明らかにすることをも目指した。調査はまだその着手点から大きくは踏み出ていないが、本報告書では、その着手した作業の一端を書きとめておきたい。3 われわれとは。「大原美術館神原泰文庫について」の記述では、1910年代初頭から世界大恐慌そして第二次大戦下となる1940年代前半までに大半の文献が収集され、一方で、1923年の関東大震災から第二次大戦に至る時期には収集も滞りがちになり、さらに多くの収集資料が散逸してしまったとある。この時期は、まさに神原が各種の組織的な美術運動に積極的に関わった時期と重なる。ここで簡略ながら当該時期の神原の活動を振り返っておきたい。3−神原泰 活動の概略―制作・美術運動1910年2月に有島生馬が5年間の西欧留学から帰国。ただちに滞欧作を南薫造との二人展で発表、また同年4月に刊行された雑誌『白樺』に、自作の詩篇や「画家ポール・セザンヌ」を寄稿するなどの活動を始める。

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