鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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翌23年4月に第1回展を開催。しかしそれから半年も経たぬうちに、関東大震災が首都東京を襲う。こうしたなかでも「アクション」同人は、バラック装飾社を立ち上―378―有島と神原は家同士が親密な付き合いを持っていたこともあり、神原は有島と直接の面識を持つ。また幼い頃から英、仏語の芸術書に親しんでいた神原は、有島によってかきたてられた関心からただちに外国語文献の収集を始める。有島は1915年4月にウンベルト・ボッチョーニの『未来派絵画彫刻論』の一部を邦訳し『美術新報』に発表する。そこで神原は有島に原書の発行所を尋ね、自ら連絡を取ると、マリネッティからの返書とともにイタリア未来派の資料が送られてくる。その後、神原は渡航歴こそないが、マリネッティなどイタリア未来派の芸術家達との交流を深めてゆくのである。こうした活動と平行して、神原は1916年文芸雑誌『ワルト』に同人として詩を発表。1917年には自ら絵筆を取り第4回二科展に入選。また同年の『新潮10月号』に詩篇が掲載されるなど、絵画、詩作双方での発表活動を開始する。1920年11月には東京の帝国鉄道会館で初個展を開催。その際、イタリア未来派にならって『第1回神原泰宣言』を私家版著作として発表。1922年10月には二科会内の急進的な若手と「アクション」を結成。「アクション」は神原泰とパリから戻ったばかりの中川紀元と矢部友衛が中核となって形成され、浅野孟府、飯田三吾、泉治作、古賀春江、重松岩吉、難波慶爾、山本行雄、横山潤之助、吉田謙吉、吉邨二郎が同人に名を連ねた。げ、仮設される建築空間に積極的に介入する興味深い活動を行うが、第2回展を開催した後、二科展本展での同人達の待遇格差を主要因として分裂が始まり、1924年10月には解散を決定。神原が10月14、15日の東京朝日新聞に「アクションの解散」を寄稿。また解散直前の8月16日には同人の難波慶爾が故郷岡山で亡くなる。こうして「アクション」は頓挫するが、息つく間もなく神原は、「アクション」解散と同じ1924年10月に結成された「三科」に加わる。「三科」は、「未来派美術協会」の木下秀一郎、「マヴォ」に拠った村山知義、柳瀬正夢、大浦周蔵、そして「アクション」やその周辺にいた神原、岡本唐貴、中原実、矢部友衛など、前衛的な作家が大同団結した組織である。1925年5月に第1回展「三科会員作品展覧会」、そして築地小劇場で一夜だけ開催された「劇場の三科」によってセンセーショナルな登場となる。もっとも先鋭的な活動家達の大同団結が息長く続くわけもない。そのきっかけが神原であった。神原は会員展からの事の運びに、すでに冷め切った態度をとっていたよ

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