鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―379―うだが、公募を含めた2回展を前に除名処分となる。そして、この2回展は9月12日に開会するが、会期中に会員の内部分裂により「三科」は突然解散してしまう。この分裂を受けての神原の組織形成も早かった。1925年11月に神原は旧「アクション」の浅野孟府、岡本唐貴、矢部友衛、吉田謙吉、吉邨二郎などと共にグループ「造型」を立ち上げる。やがて「造型」は革命以降の新たな社会体制下でのロシア美術に関心を抱いた矢部を主にして、1927年2月に新ロシア展開催に尽力する。矢部や岡本は同展に招来された作品を称揚し、ひるがえってフランス美術を享楽的でブルジョア主義的なものと主張するが、フランスの動向を周知する神原は、そうした比較を通じたフランス美術に対する攻撃を抑止する評を表す。やがて岡本、矢部は思想的にも左傾化を急進させ日本のプロレタリア美術運動の中心的な役割を担い、一方で神原はそうした二人の動向とは一線を画すようになるが、共に1930年代に至っては、日本の前衛美術運動の表舞台にその存在が突出して露呈することはなく、静かに戦時下を生きることとなる。3− 神原泰 活動の概略−著述・文献収集大正期前衛美術運動における実作者でありオルガナイザーとしての息つく間もない神原の疾風怒濤の活動は特筆すべきものであるが、そこに西欧から収集した文献をもとにした論述活動の活発さを重ね合わせると、そのエネルギーは尋常ならざるものとしか言いようがない。すでに、1920年初個展の際の私家版著作『第1回神原泰宣言者』を刊行しているが、1922年にやはり私家版の著作『ビーナスの誕生』も表す。さらには、1921年4月に小原国芳が起こしたイデア書院を舞台に、『新しき時代の精神に送る』(1923年7月)、『芸術の理解』(1924年4月)、『未来派研究』(1925年3月)、その間にも『Bilititis noUta kara』(1924年 日本のローマ社)、『新興藝術の烽火』(1926年5月 中央美術社)と次々と著作を世に問うこととなる。まさに同時代西欧に伸ばした鋭敏なアンテナゆえの著述活動とも言えるが、【文庫】の構成、あるいは【目録】に付された詳細な注釈からしても、神原が強く感化されたのはアポリネール(Guillaume Apollinaire)を主とした、ピカソをはじめとするキュビスム関連の評論であった。【目録】中の神原の記述からして、これらの文献は刊行からさして間を置かず神原の手元に至っていたと考えてよい。各文献に付された注釈を見ても、各書籍の版の違いや、その装丁についてアポリネールやピカソなどのやり取り、またアポリネールの

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