鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―380―『芸術の理解』に掲載し、同書をパリにいるローランサンに送ったことから交友を持つ。次いで1925年5月に「マリー・ローランサン―凡ての藝術論は、詩でなければならない」を『アトリエ2巻5号』に執筆。そしてフランスにおいてさえ単独の画集や単行本も刊行されていない1927年の時点で『マリー・ローランサン畫集』を出版するに至るのである。さらに神原は晩年に至るまで、幾たびとなくローランサンについて1921)の見返しには、「一九二三、東京、難波慶爾」のサインが残っている。愛人でもあり、その存在の日本への紹介では神原が主導的な役割を果たしたマリー・ローランサンとのやりとりなど実に興味深い記述に満ちており、まさに各文献をリアルタイムで受け止めてきた者ならでは現実感がある。こうした文献を基に、神原が独自のピカソ論をまとめたのが1925年10月にアルス社から刊行された『ピカソ』である。冒頭の序には、自ら『手引き書』であり『評伝』であり、『信頼に足るドキュメント』であり、そして『一つの詩』であることを願うと記した労作であるが、さらに神原は『数年後ピカソに対して世界的な一つの研究書を完成したい希望でもえている。』と述べるように、この著作はあくまで通過点と言い切れるほど、すでに神原は相当な情報の蓄積と、ピカソに対する理解を備えていた。そのことは【文庫】に残された、目録の記述や、蔵書印や購入先シールなどから跡付けることができる入手時期からして、1925年時点におけるピカソ関連の収集文献の蓄積が十分に裏付けている。ピカソとならび、当時の神原が強い関心を寄せていたのが、マリー・ローランサンであった。1924年1月「マリー・ローランサンの藝術」を『中央美術10巻1号』に発表。その一文と「評伝マリー・ローランサン」を同年5月にイデア書院より刊行した触れた出版に関る。もっともこの画集をはじめ、神原泰文庫には、ローランサンを主とした文献は納められてはいない。ピカソと未来派に絞り込んだ構成からすれば、当然と言えることではあるが、まだ神原の手元に残されていたであろう、それらの文献はいかなることとなったのであろうか。3−■われわれとは。難波慶爾。『原稿を書く為に 此の本を(その他の本も含め)難波君から借りて、まだ返さないうちに、同君が死んで了った。遺族と連絡がつかないので残念だ』。上記メモの紙片が挟み込まれたMAURICE RAYNAL『PICASSO』(Delphin-Verlag難波慶爾は、「アクション」同人であり、またその解散直前に若くして逝去した画

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