鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―30―大東南宗院の主要な活動は、1942年から44年にかけて3回開催された大東南宗院展である。同展は、42年には東京、京都、北京、南京、上海、新京で開催され、43年には東京、京都、京城で開催された(44年は東京展のみ)。日本のみならず、満州国・中国・朝鮮からの出品を含んでおり、美術によるアジア主義の実践を地で行く団体であった。ただし、同展の「大東亜美術の新建設を目ざして日満華の美術提携と進んでは南方諸圏への日本芸術進展の先駆たる使命」は、高く評価される一方で(川路柳虹「大東南宗院第一回展を観て」『南画鑑賞』1942.5)、肝心の出品作は「退屈そのもの」と評されるなど芳しいものではなかった。特に中国からの出品作は「巧みなる古本の模写の羅列に過ぎ」ず、日本の美術界による指導が必要であると評された(大山広光「新南宗画への理念と実際」『国画』1942.7)。同団体の活動は、理念的にはアジア諸国の平等的関係性の構築を想定していたが、「亜細亜民族の盟主たる日本人」がアジア諸国を指導するという自民族中心主義的発想(吉副禎三「大東亜南画論」『国画』1942.7)を払拭することはできなかった。「大東亜美術」を担った美術団体は、他にも1942年8月に陸軍の肝煎りで創設された大東亜美術協会や同年10月に大東亜省の後援で創設された興亜造形聯盟、1943年5月に美術界の挙国一致団体として成立した日本美術報国会などを挙げることが出来る。いずれも「大東亜文化」あるいは「大東亜美術」の確立を目標に掲げた国策団体だが、その活動の詳細については紙幅の都合上ここでは割愛する。続いて、当時の美術雑誌によりながら「大東亜美術」に関する理論を見て行くことにしよう。「大東亜美術」理論は、およそ4つの傾向に分けることができる。第一は、既存の文化を「共通文化」として利用する傾向である。南画を東亜共通の文化と位置づけ、「大東亜美術」の足がかりにしようとした大東南宗院の運動は、最も端的な例である。他には、仏教をアジアの共通宗教として位置づけ、仏像をもって大東亜建設を図るという議論が存在した(澤田晴広「仏像と大東亜建設」『日本美術』1942.6)。1940年に元中支派遣軍最高司令官・松井石根の発案で日中戦争における日本人・中国人戦没者を追悼する名目で熱海に建設された興亜観音(小倉右一郎作)は、こうした議論の先駆として位置づけることが出来る。個人レベルでは、難破田龍起が1943年9月、仏像を主題とした個展を開いている。第二は、美術によって「大東亜」の象徴化を目指す傾向である。中村弥三次「大東亜の文化行動」(『国画』1942.6)では、「大東亜民族共同体の地縁的・血縁的及び文縁的統一性を美的に象徴すること」が「大東亜造型美術による文化行動」の最高の指標とされた。しかし、いかにこの象徴化が実践されるかについては、「わが日本文化

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