―381―家である。ただその実体はまったく不明で、遺作展を知らせる新聞記事の掲載写真が、彼の作品を伝える唯一のイメージと言え、事歴については『アクション展』(有楽町朝日ギャラリー他 1989)図録に掲載された略歴に全てまとめられてしまうだろう。もっとも1923年の時点において2年前にミュンヘンで刊行されたレイナールの著作を入手し、また神原のメモから知れるように、他にも複数の文献を所持し神原が借用していたとなれば、難波もまた同時代西欧の動向に極めて敏感な存在であったのであろう。また難波は「アクション」の事務所を引き受けており、その組織者を自負する神原との親交も同人中でも特に深いものであったと推測される。またやはり同じく岡山県出身の岡本唐貴と接触し、遺作展が岡本の神戸での拠点「カフェ・ガス」で実施されたとなれば、夭折した彼の存在により注目すべきと考えた。また彼が当初に教えを受けたのが、大原美術館の礎となる作品を収集した画家児島虎次郎であり、児島も指導者として関与したとされる、明治後期の岡山で組織された洋画家団体である菴羅社に関ったとされることもあり、難波慶爾の調査に多くの労力を割いた。しかし結果は、神原が『遺族と連絡がつかないので残念だ。』とすでに述べたように、本報告書に盛り込むべき成果はまったくあがらなかった。また菴羅社についての調査も成果はなく、わずかに岡山市の後楽園を会場に洋画家達の作品相互批評会が開催され、その会の指導者役に児島虎次郎と、東京美術学校を卒業後岡山市に在住して児島とも親交が深かった吉田苞があたったことと、その会をして菴羅社、あるいは岡山洋画研究会とする記載があるといった断片的な情報を得る事ができたにすぎない。おそらくこの相互批評会に、まだ10歳代の難波が参加し、となれば彼は、岡山市近郊に在住していたのであろう。これらについては今後、継続的な調査を行いたい。このように難波慶爾についての【文庫】を離れた拡張的な追跡調査は、まったく成果を挙げられなかったが、今後は【文庫】の詳細な点検を通じて難波に関る何らかの情報を拾い上げる機会がくることを期待したい。3−■われわれとは。東郷青児、村山知義、永野芳光【文庫】のイタリア未来派関連の文献の中に、神原の他に、東郷青児、村山知義、永野芳光の3名の名前を神原のメモの記述中に確認できた。その文献はいずれも、すでに五十殿利治氏が著書『大正期新興美術運動の研究』(スカイドア 1995)に紹介されているが、それらに付された神原のメモと共に、ここに報告しておきたい。まず、マリネッティが中心となってローマで刊行された雑誌「Noi」の創刊号から
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