―382―12号までが【文庫】に収められているが、第5号(1923)には神原のメモがあり、そこには『長野君、神原の作品の出ているNoi第5号(1923年8月)を選んだ』と記されている。同誌を確認すると、氏名と在住地として「NAGANO(Osaka)」として、『Frau mit Gitarre』が、Noi第5号掲載の『Donnna+Balalaica』であるのは両図版を見Balalaica、Femme+Balalaika』『Operai、Ouvriers』である。一方の神原であるが、こ2点の作品図版が掲載。タイトルは伊、仏語で表記され、2点各々は『Donnna+ちらはすでに日本で発表済みの詩「真昼の街道」が、ローマ字表記によって掲載されている。この「真昼の街道」については、五十殿氏が前掲書P. 335に引用され、同詩が1917年9月に同人誌『ワルト』に掲載され、後に神原の著書『未来派研究』に掲載されたことを伝えるが、ちょうどその中間の時点で、イタリアにおいても発表されていたわけである。さて神原がメモに長野と書いたのは、明らかに永野芳光の誤りである。これについては、五十殿氏が前掲書において、1922年5月にベルリンで発行された「Der Futurismus, Nr1」に掲載された、「Nagano」「Murayama」の作品図版について詳細に述べるように、それぞれ永野芳光と村山知義のことであり、その作品のうち比べれば一目瞭然である。この「Der Futurismus, Nr1」も神原泰文庫に収められている。もうひとつ注目すべき文献は1922年6月にミラノで発行された「IL Futurismo」第2号と、それに付された神原メモの以下の記述である。『未来派の宣伝紙の中に日本の画家の作品や名前がのっているもの/(例示)/東郷君、長野君、村山君の作品/Le Futurisme Mondial(Manifeste)のように神原、東郷、平野、長野、村山(記録順)の名の出ているもの』このうち「平野」については、それが誰であるのか、またどの文献に記載されているのか、まだ確認できていないが、村山、永野は前述のとおり。そして東郷は、このメモが付された「IL Futurismo」誌2号のフロントページに、五十殿前掲書も紹介するように2点の東郷青児作品の図版が掲載されている。さて神原は、まず間違いなく、これらの文献を発刊からさして間もなく入手していた。それゆえ、まずベルリンにおける村山、永野の活動を、彼らが1923年1月に帰国し早々に活動を開始する以前に知っていた可能性が高い。すくなくとも村山、永野の周囲の日本人の中で、神原こそが、彼らがベルリンを拠点に同時代西欧の前衛美術運動のいかなる動向と関わりを持っていたのかを最も正確に把握していたことは確かであ
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