―383―ろう。永野の名前の誤記については、このメモ自体がかなり後年になって文庫整理を行う時点でのことゆえの記憶違い、あるいは永野が早々に大正期の前衛美術運動の表舞台から消えていったことによる交流の薄さが要因であると考えられる。一方、東郷のイタリアでの動向を、神原はどのように見ていたのであろうか。神原と同じ二科展で華々しいデビューを飾った東郷は1921年4月にフランスへ渡り、早々にイタリア未来派とも接触を持ち、同年10月、そして翌年1月とイタリアへ旅して、イタリア未来派の集会にも参加している。もっともそうした事跡は近年の五十殿氏の調査によって明らかになったことであり、すくなくとも帰国後の東郷が、イタリア未来派の紹介者となる、あるいはその作品や理論を基盤として自らの活動を展開させた形跡はほとんどない。すなわちそれは、西欧を訪れることもないながら、積極的な文献収集とその語学力を生かしてイタリア未来派や20世紀初頭のフランスの前衛美術状況に通じ、そしてそれを日本の美術状況へリアルタイムで反映をなした神原の存在とは実に好対照なものである。本研究の現在での進捗状況では、必ずしも多くの収穫は得ていないが、今後さらなるデーター整備と調査の進展によって、より精密な神原泰の存在を描き出すことは、こうした周囲の美術家達の存在を浮き立たせる鏡を磨きあげることになると確信する。
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