鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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第14回帝展(1933年)の入選作、梶原非佐子(1896〜1988)の日本画《機織》(二曲一隻、158.5×200.0cm、京都国立近代美術館蔵、〔図3〕)は、朝鮮の婦女が行っていたもう一つの労働である養蚕と機織りに従事する女性を描く(注6)。とは言って―388―るく照らして―見守って―いるように、彼女たちの表情は明るく、右側の女性は口元に微笑みさえ浮かべている。も、この作品が描く女性は、常民の女性ではなく、上流階級の婦女―旧両班家の女性―である。彼女は、チョクチンモリの髪型をし、花や金箔文字の柄が入り、袖口に濃い紺色のクットンが施されている華やかなチョゴリを着ている。白いチマには、赤い結び紐が付けられている。白いボソンに青いゴムシンを履いている。織機には、緑の絹糸がかけられており、彼女は、右手に筬(オサ)を持ち、左手には杼(ヒ)を持っている。筬を見る真剣なまなざしや端正な姿勢などは、この上流階層の婦女に、清らかで、賢く淑やかな印象を与えている。しかし、重要なことは、上流階層の婦女というものは、実際には決して労働しない。この作品に描かれているのは、機織りを、女性にふさわしい労働として高く評価しようとする「良妻賢母」への志向なのである。朝鮮において、機織は、李朝時代から婦女の仕事の一部であった。檀園金弘道(1745〜?)の風俗画《機織》(「風俗画帳中」、法量不明、〔図4〕)は、木綿機の前で、布を織る婦女を描く。彼女の後ろでは、玩具を持って遊ぶ子供と、孫を背負っている姑が、織り作業を見ている。画面の向こう側では、一人の婦女が經糸にのりをつけている。この風俗画において、姑が孫の世話をし、嫁が布織りをしているように、布織労働は、女性に任された労働であり、婦女にとっては、育児や家事労働の合間に行うものであった(注7)。植民地期になると、養蚕・機織作業は、朝鮮総督府による「養蚕奨励政策」によって、婦女が家内で行う仕事の一部としてではなく、公的空間において行われる産業として展開された。朝鮮における日本の養蚕事業は、早くも1900年代に入って、朝鮮の親日貴族―旧両班家―の婦人を中心に「新女性開化運動」とともに展開された。1905年には、「大韓婦人会」が組織され、養蚕改良発達事業に協賛する運動を展開していった(注8)。1906年には、日本の皇族と公吏らが援助して、ソウルの竜山万里倉に「模範的養蚕所」が設けられた。1910年の日韓併合以後には、蚕業伝や、養蚕に関する講習所なども設けられ、一層奨励に拍車がかけられた。このような奨励は、朝鮮の農村にも波及し、「桑栽培強制」という形で、朝鮮の在来の蚕種の追放、日本

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