鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―389―種・中国種の配布普及から、1919年の「朝鮮蚕業令」による種の限定・統一、朝鮮在来方式の追放、日本方式への改変を促した(注9)。このような総督府による養蚕奨励政策は、一方では、朝鮮婦女の労働を、手仕事から産業的な労働へと移行させるとともに、他方では、女性たちを、家内という私的空間から、社会という公的空間へと移行させることとなった。そのような意味では、養蚕奨励政策は、朝鮮女性の社会化を促すこととなったのである。例えば、1906年に、大韓婦人会によって竜山万里倉に設けられた「模範的養蚕所」は、「婦女の淑徳を涵養し、その弊習を改善し、且子女の教育を普及する」ことを目的のひとつとしていたように(注10)、朝鮮の近代における養蚕産業は、儒教的な「弊習」―蟄居など―に捉えられている朝鮮の女性たちを「良妻賢母」や「働妻健母」へと育て上げる女子教育と密接に関連していた。「良妻賢母」とは、都市型の女性の理想である。《機織》という作品に描かれた、上品で、賢く、淑やかな雰囲気を漂わせている女性、具体的に言えば、「模範的養蚕所」を主導した大韓婦人会のメンバーである旧両班家の女性―「教養ある人物」―たちである。ただし、この「良妻賢母」という理想は、日本が朝鮮の女性教育の目的としたものである。その意味では、画中に描かれた機織機が、朝鮮式の木織機ではなくて、「絹機」と呼ばれる日本式のものであることは興味深い。「良妻賢母」とは、従順で、貞淑で、勤勉な婦女として、婦女一般の理想であったというよりも、日本という国家=夫に、その労働力/貞節を捧げる女性、いわば、「忠良なる臣民」であったにちがいない。「働妻健母」は、地方型の女性の理想であるが、そのイデオロギー的な実質は「良妻賢母」と変わらない。第3章 朝鮮の幸福昭和11年の文展(1936年)の入選作、中谷金鵄(生没年不詳)の日本画《鶏を抱く少女》(法量不明、〔図5〕)は、その象徴性―日本軍部に協力して繁栄をもたらされる朝鮮―において特異な作品であるように思われる。画面中央に一人の少女が鶏を抱いて立っている。三つ編みにデンギ―リボン―を付け、白いチマ・チョゴリを着て、裸足にゴムシンを履き、腰には、チュモニ―ポッチ―を付けている。彼女が立っているところは、一見して丘のように見えるが、子細に観察すると、壁が倒れかけている庭のようである。彼女の足下には、二羽の鶏が見える。彼女の左足下には、何も装飾がない黒色の陶器が置かれている。彼女のすぐ後ろには、瓦を乗せている石垣が崩れかけていて、その石が彼女の背後の地面に散在している。彼女の周りには、向かって右側に、ネコジャラシ、左側に、ノアザミな

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