鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―31―の最も偉大なる特質の一つであり、わが国体に深く根差した皇産霊の稜威に基く」と述べられるに留まり、抽象論を出ることはなかった。この議論には、皇道主義(日本主義)が「大東亜美術」におけるアジア主義を飲み込んでいく過程を見ることができる。第三は、大東亜工芸論というべき傾向である。美術の中でも、生活に密着した位置にある工芸は、抽象的精神論よりも実践的な大東亜主義が出てきやすい環境にあった。工芸の議論では、いかに商品を南方で売るかといった経済的議論(「共栄圏と日本工芸の進出1」『旬刊美術新報』1942.3.1)や工芸の改良論、工芸を通して南方の生活を日本化する議論などが登場した(川本鈞一「日本の根─大東亜建設と民芸」『民芸』1942.3)。この即物的実践性は、絵画や彫刻に基づく大東亜美術論とは一線を画する。第四は、日本画を「大東亜美術」に相応しく改良することを目指す傾向である。この種の初期の議論では、日本画が「大東亜美術」の指導的位置に置かれる一方で、偏狭な日本主義への傾斜に対する警戒が述べられる側面もあった(鼓常良「日本画に於ける東洋的なもの」『国画』1943.1)。しかし、戦争が激しくなるにつれ、皇道主義/惟神の精神を強調したファナティックで抽象的な日本主義が中心になっていった。吉副禎三は、日本画を「日本主義の象徴」であり、「大東亜共栄圏民族への恵み」、敵の「教化にも役立つところの文化財」であると定義した(「決戦日本画論」『国画』1943.11)。また、大串兎代夫は、「大東亜の文化の根源は正に惟神の道に存する」(「大東亜共同宣言と日本文化」『美術』1944.6)と論じた。なお、「大東亜美術」論において、洋画は概して排斥の対象であった。なぜならば、前述したように、主として「大東亜美術」論は米英に対する文化戦の理論として紡がれた理論だったからである。それでも開戦当初には、新日本主義の系譜に連なるような、洋画は日本化することで「大東亜美術」に貢献し得るという議論が存在した(植村鷹千代「大東亜戦争と日本美術」(『新美術』1942.12)。しかし、戦争末期になるとこうした議論はほぼなくなり、最終的には日本画と差異化された洋画というジャンル自体を否定する議論まで現れるに至った(「洋画の変名」『国華』1944.9)。最後に「大東亜美術」の作品について見ることにしよう。植村鷹千代は、「形の流行と言葉の流行─洋画壇の諸問題」(『日本美術』1942.12)において、「理想主義の美術論、大東亜美術論も成る程結構」だが、「絵にならない」「絵から離れた議論」であり、「全くとるに足らない」と論じた。事実、以上に見た「大東亜美術」の理論の多くは、実作品を生み出す具体性を持たなかった。とはいえ、大東亜建設という理念

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