注日本国内の官展は、1907年から44年まで、文展・帝展・新文展などと名称を変更して行われた。 金惠信「韓国近代美術におけるジェンダー植民地期帝展の女性イメージをめぐって」(『女?日本?美?』慶応義塾大学出版局、1999年)/(『韓国近代美術研究―植民地期「朝鮮美術展覧―391―おわりに視覚的表象は、それが展示される場―コンテクスト―に応じて、多様な機能を果たす。朝鮮女性もその例外ではない。同じ一つの作品が、例えば「朝鮮書画協会展」(注12)/「朝鮮美展」/「帝展」に出品された時、また、朝鮮人の観客が見た時、あるいは日本人の観客が見た時、それは異なった見方をされるにちがいない。具体的な作品が、実際にどのように見られたかは、資料―観客の感想・証言―を博捜しなければ分からないし、たとえ資料が見出されたとしても、無意識のレヴェルにおいて、本人の意識とは異なった見方がされている可能性もある。国家の権威のもとで、帝展において、日本人に対して展示された3点の朝鮮表象もまた、その機能―見られ方―を実証的に示すことはできない。ただ、当時の社会的・政治的コンテクストを参照するなら、いくつかの可能性を理論的なレヴェルにおいて―事実問題ではなく権利問題として―指摘することが出来るにすぎない。例えば、「働妻健母」と「良妻賢母」のイメージは、日本国内における「処女会」の成立(注13)、「公民」の誕生、「公民の妻」の育成というコンテクストを考慮した時、明らかに日本女性に対して労働を奨励する機能を果たす。「公民の妻」は、「良妻賢母」と同時に、夫である「公民」を家庭内で「内助」―育児・子育てを通して将来の「公民」を育成する母―すると同時に、夫に準ずる程の農業労働に従事する「妻」として、また、将来の農村経営を、家庭経済や生活改善、年中行事、公共事業などを通して内側から担っていく婦人層の一員として、そして、伝統的な秩序意識や「新時代」にふさわしい国家意識を有する「新時代」の日本女性として、農村―都市においてもその根本は同じであった―の女性に求められたイデオロギーであった。また、《鶏を抱く少女》は、当時の朝鮮が、日本の満州進出にともなって、「大陸兵站基地化」されていた状況を考慮するなら、日本軍に協力する朝鮮を表象することによって、日本人に対して、朝鮮の大陸兵站基地化そのもの―第三期に行われる「国家総動員」「日本同化」「内鮮一体」へとつながる政策―を正当化するように機能したにちがいない。以下、便宜的に「帝展」と呼ぶ。
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