■児島薫「近代日本における帝展の役割とその主な作品の分析」(『美術史論壇』13号、韓国美術研究所、2001年)は、受容史的な観点で、その成立や展開について詳細に記している。また、五十殿利治「美術展覧会と近代観衆の形成について」(『科研研究成果報告書』平成14年)は、帝展とその観衆の形成について研究報告を行っている。■岸文和「メディアとしての絵画」(『美術史論壇』第六号、韓国美術研究所、1998年)同「絵画の行為論―新しい美術史のために」(『美術史論壇』第10号、2000年)など参照。なお、岸文和は、「絵画のコミュニケーション機能」を大きく次の五つ―①指示的/再現的機能、②表出的/情動的機能、③能動的/指令的機能、④メタ絵画的機能、⑤美的機能―に分類している。本論では、主として「植民美術」の指示的機能と能動的機能に注目して分析や検証を試みる。■女性風俗を分類する基準は、描かれている女性の外見―主に髪型/服装など―の相違である。すなわち、既婚者の場合は、額の真ん中で髪を分ける形にして、頭の後ろで束ね、ピニョという簪を使用して、首より少し高いところで束ねる、一般的に「チョクチンモリ」と呼ばれる髪型をしている。未婚者の場合は「キミッモリ」と呼ばれる、おさげ髪にして後ろに垂らすという髪型で、三つ編みにしてその尾にリボンを付けるのが通常である。また、妓生の場合は、外見としては、ほとんど既婚者と同じ髪型をしていて、見分けがつかないが、妓生の生活と関わる持ち物をはじめ、服装、飾り物、仕草、場所といった様々な状況的証拠を基に区別した。なお、ここで言う妓生の生活に関しては、朝鮮時代の風俗画に含まれる図像をはじめ、植民地期に書かれた妓生に関する文献や、「風俗絵葉書」と呼ばれていた視覚媒体などを参考にしている。■李 ヒョチエ「常民層家族の婚姻と家族生活―女性の労働」(『朝鮮朝社会と家族』ハンウル、■とは言え、朝鮮時代の布織は、婦女にとって、現実的に収入を伴うものではなく、自給自足のためのものにすぎなかった。なぜなら、機織は、婦女の家事労働以外の余暇の時に行われたので、量も少なく、質も悪かった。また、税としてある程度、官に上納しなければならなかったので、産業として成長しなかったからである。前掲書所収。■この事業に関しては、次の文献にその詳細が記されている。橋澤裕子「日帝下における女性と前掲書所収。前掲書所収。北澤楽天「朝鮮の総督政治」『東京パック』Vol.7.No.19.東京有楽社発行、明治44年7月。この「書画協会展」は、旧世代に属する書画会を発展的に吸収し、西欧の近代思潮を受け入れつつ、書画界の近代化を目指した点で、当時、朝鮮の書画界の人々に好評をもって迎えられた。この協会の主な事業は、揮毫会や展覧会を開催し、依嘱制作を行い『書画協会会報』という機関誌や一般美術及び考古材料、大家の作品の印行と図書の出版、絵画の講習会を催すことなどであった。中でも、特筆すべきことは展覧会の開催で、1921年から1936年までに全15回開催された。この展覧会は、韓国最初の「西洋式公募団体展」であったため、その規模は大変大きく観覧客も多数を数えた。「処女会」は、主に農村女子を対象に、尋常小学校卒業後、結婚するまでの青年女子を「正会―392―2003年)pp. 151−173。会」にみる異文化支配と文化表象』、ブリュッケ、2005年)は、朝鮮美展の入選作には無気力な従順さや未発達で劣った女性イメージが見出されることを指摘し、朝鮮美展が朝鮮の日本同化のための重要な装置であったことを明らかにした。労働」(『朝鮮女性運動と日本』新幹社、1989年)pp. 64−77。
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