―393―員」「通常会員」とする組織団体で、日清・日露戦争を経て、第一次世界大戦を契機とする総力体制期に至る課程で、国家・社会が女性の役割に注目し始め、女子を対象とする教育的働きかけの必要から、青年女子層を涵養する目的を持って組織された団体である。補足すると、そのメンバーの大半は、小学校の同窓会や縫製の会などを基盤に、町村単位や地区単位、小学校区単位で結成され、会長は町村長や小学校長などが務めた。当初は、修養講話や各種の講演会・講習会、敬老会などが活動の中心であった。地域により、婦人会や青年団との合同事業が盛んであり、補習教育、社会事業などに積極的に携わる処女会もあった。会費は篤志家などの寄付が大半だが、処女会員たちが事業により検出する場合もあった。「処女会」の展開は、1917年(大正6)9月、女子団体に関する初の全国調査で「優良団体」と認められ、1921年(大正10)6月に詳細な調査報告『全国処女会・婦人会の概況』が刊行され、1926年(大正15)に「女子青年団体」として文部省・内務省の共同訓令の公的文書に登場する。渡辺洋子『近代日本女子社会教育成立史―処女会の全国組織化と指導思想』(明石書店 1997年)pp. 29−33。
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