A宮廷和様屏風図様の継承過程について―397―研 究 者:成城大学 文芸学部 教授 相 澤 正 彦はじめに近世の障屏画作品を見ていくと、同じ画題でそっくりの図様を持つ作例が少なからず存在することに気付く。そこには、あるテーマに限っては、特定の図様が重きを置かれ、それを踏襲すべき何らかの意味付けがあったことが容易に想像できる。この種の作例としては、希に桃山、いや室町時代にまで遡る一群もあり、その筆者は狩野派、宗達派から民間の絵師にまで及んでいる。そして子細に見ると、それらの描法、図様には、室町時代の宮廷絵所をほぼ独占した土佐派、それも土佐光茂(?−1523〜1550−?)やその弟子光吉(1539〜1613)の絵画的特徴が看取される場合が多い。畢竟、宮廷絵所の作品に、故実に裏付けられた伝統的権威が認められた故に、それが規範となって後世まで描き継がれていったのだろう(注1)。宮廷絵所作が、故実主義という物差しによって厳密な審判を経てきたものであることは、当の光茂が関わった「車争図屏風」制作の過程が適例として挙げられよう。その詳細は『御湯殿上日記』にあるように、永禄5年(1562)、正親町帝の命で貴紳の故実家が集められて綿密な吟味を受けつつ、時の宮廷絵所預であった光茂が下絵を幾度も作った上に成り立ったもので、宮廷社会において、いかに故実主義が重んじられていたかを知らしめる。とくに近世に入って、とりわけ光茂作品に規範性が置かれた理由としては、光茂が物語の劇的な場面一、二を選択し、これを可視性に富んだ大画面構成にまとめたところにあり、その感覚は来るべき近世という時代にも適ったものであったのだろう。従来から土佐派の源氏絵画帖が、後続の源氏絵図様の大きな源泉になっていたことはしばしば指摘されてきたが、小稿が対象とする障屏画の分野では、まだまだ考究が不十分な作品群が多い。本研究は、土佐光茂が創成し、弟子光吉が継承した宮廷社会の和様図様を、障屏画品に探っていくことにより、伝統重視の姿勢に貫かれた一群の江戸期障屏画類の存在を明らかにすることにある。一 光茂様式の近世障屏画光茂系の障屏画として挙げられるのは、後述する「大原御幸図屏風」「犬追物図屏風」「車争図屏風」の他、「日吉山王・祇園祭礼図屏風」「明石・浮舟図屏風」などがある。これらのほとんどに亘って、民間の絵師が追随した作例が存在している。確か
元のページ ../index.html#406