鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―399―目にかけての室内場面〔図9−1〕、すなわち裁縫する女房たちや奥の間に控える浮舟の姿は、光茂の描く「桑実寺縁起」第二段の阿閇皇女の部屋の女性たちの構図や姿態、装束までもほぼ同工であることが見て取れる(左右逆転する形のものもあるが)〔図9−2〕。本屏風は一見すると漢画系画人の作と思われがちだが、先の出光本がこれまで狩野派の作に帰されていたように、和漢融合様式を取る光茂様式が、一見すると漢画、特に元信様式と通じる画風を持っていた故の混同に因るよるところが大きい。以上の二点については、土佐派の源氏絵画帖(光信系と光吉作はあるが、光茂系は未だ知られていない)などから典型図様を抜き出し障屏画に再構成したと見る向きもあろうが、主題と関係ない背景などの各所に光茂様が見られることから、画帖と図様を共通するこの種の光茂の大画面作品があり、これが土佐派をはじめ近世の民間の工房にも継承されたとみなしておきたい。さて次には、これらの光茂図様がどのように流布していったのかという問題だが、宮廷およびその周辺の障屏画がさほど多くの人々の目に触れる機会が想定できない以上、その波及には何らかの要因が求められる余地もあろう。そこでクローズアップされてくるのが、後継者光吉の存在である。二 光吉への継承光茂から光吉への図様の継承過程に関しては、『土佐文書』に光茂が弟子光吉に絵手本類をすべて譲った書状があり、また光吉の制作態度にも、その絵手本を遵守する傾向が強かったことが推測される(『土佐文書』中、大坂城調度品の平家物語屏風制作の一件)。そこで、これらの状況を証する適例として、「大原御幸図屏風」を取り上げてみたい(注4)。「大原御幸図屏風」は言うまでもなく平家物語の灌頂巻をテーマにしたもので、古典的物語屏風という点では最右翼に位置する。原本は失われたが、現在、長谷川派や民間の絵師に帰される室町末頃から桃山、江戸前期(17世紀)にわたる作例が十点近く知られている(注5)。いずれの図様も大同小異だが、そこには物語本文に則した忠実な描写態度が見られ、登場人物の心理描出などに極めて精通し、この種の古典的物語の鑑賞に長けた環境−すなわち宮廷社会で創成されたという推測を促すものだが、それを雄弁に語るのは、これら諸本の描法に光茂様や光吉様がかいま見えることである(注6)。そこで取り上げたいのは長谷川久蔵(1568〜93)筆とされる東京国立博物館本(以

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