鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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注ただし、近代における国家的制度としての「美術」が、額面上は所与の国民文化を表象=代表するものとして位置づけられている一方で、実質的には未成の国民文化を立ち上げる装置となっていることを鑑みるならば、以上のような二重定義は「大東亜美術」に特殊なものではないともいえる。■西槙偉「豊子oの中国美術優位論と日本─民国期の西洋美術受容」『比較文学』第39巻、―32― 北澤憲昭『境界の美術史』ブリュッケ、2000年、佐藤道信『〈日本美術〉誕生』講談社、1996を視覚化した美術作品が全く存在しなかったわけではない。例えば、宮崎県に建設された八紘之基柱の内部レリーフ《紀元二千六百年》(デザイン:日名子実三、1940)、奉祝展に出品された和田三造《興亜曼荼羅》(1940)などは、いずれも日本/天皇を中心とした大東亜民族の共同性を視覚化する作品として位置づけることができる。前述の興亜観音(1940)、興亜観音の壁画として制作された西村真琴《八紘一宇》(1940)、新文展に出品された井戸義夫《興亜聖観自在》(1942)、布施信太郎《聖戦に祈る(十一面観音像)》(1943)は、仏教を媒介とした大東亜建設の理念を表したものである。新文展に出品された森大造《海東の正気》(1941)、結城素明《建設へ》(1942)、大日美術院に出品された結城素明《大東亜》(1942)などは上代の武人を描いて、皇道主義による大東亜建設を謳っている。以上、「大東亜美術」の理論と実践を概説的に論じた。「大東亜美術」は、アジア主義を基調としながら日本主義をも内包するという矛盾を抱えていた。この矛盾は最終的に、皇道主義を基調とする日本主義がアジア主義を飲み込む形で解消されるに至る。アジア主義は「天皇」という壁を前にして機能停止を起こしてしまったのである。こうした結末は、日本美術におけるアジア主義が辿るべくして辿った必然的結末なのであろうか。あるいは、アジア主義にはこの結末を回避する可能性は内包されていたが、それがどこかで見失われてしまったのだろうか。また、戦前・戦中のアジア主義は、戦後の画檀においてどのように受け継がれていったのか。本稿は研究の第一歩に過ぎず、課題は山積みである。今後の研究でさらに考察を深めて行きたいと思う。1997年を参照。年、高木博志『近代天皇制の文化史的研究』校倉書房、1997年などを参照。

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