―401―混在の理由について、有り体に言ってしまえば、東博本が光茂画に拠った光吉画を直接の原本にしたと解釈することで納得がいこう。光吉は全体の骨格となる構図や背景の添景モチーフには光茂様を踏襲しながらも、人物の容貌は自らの表現で処理したのだろう。「大原御幸図屏風」に見る、このような光茂から光吉への大画面図様の継承過程は、他作品からも類推することができる。その適例が「犬追物図屏風」と「車争図屏風」の二点である。「犬追物図屏風」には、桃山から江戸期にかけての諸本があり、数種のバリエーションも認められる。これも原本は存在しないが、光茂本の模写本が国立国会図書館他〔図6〕にあり、その画風検討から、今は失われた原本は光茂によって描かれたものであることが明らかにされている(注7)。さらに「探幽縮図」(東京芸術大学資料館)にある土佐光吉の「犬追物図屏風」を見ると、光吉がかなり忠実に光茂祖本を踏襲していたことも判明している(注8)。加えて江戸期の土佐派やそれ以外の民間の絵師の作にも、光吉本の流れに位置する作例があり、またそれを狩野山楽なども描いていることにより、「大原御幸図屏風」の場合と同様に、光茂、光吉と継承された図様が同派だけにとどまらず狩野山楽や民間の画工にも流布したことが窺われる。次に「車争図屏風」(仁和寺)〔図7〕についてである。まず留意すべきは現在の六曲一双屏風は左右隻の筆者が異なっていることだ。右隻は画風からして前記『御湯殿上日記』にある永禄五年(1562)、正親町帝の命で光茂が制作したとみなされるもの、左隻は光茂の下絵を元に江戸初期頃に補完されたものと推定される(注9)。この屏風の場合、複雑なのは下絵を光茂が作った段階では両隻分があったのだが、それを元に右隻の本画が制作された後、左隻が完成を見たか否かが確かめられないことだ。にもかかわらず後世、狩野山楽がこの光茂本の左右隻を本歌にとって、独自の「車争図屏風」(東京国立博物館)を完成させている。この場合、たとえ光茂本が右隻だけの未完成本であったとしても、山楽は光茂から光吉の手に伝わった下絵を元に、「車争図」制作が可能であったことを以前に指摘しておいた(注10)。「大原御幸図屏風」や「犬追物図屏風」とは異なり、ここでは継承者光吉の存在はおぼろげなのだが、光吉と山楽の親密な交流を考えれば(注11)、この想像も許容される余地はあろう。ちなみに「車争図屏風」は遺品は少ないのだが、江戸前期の民間の絵師の作例(富士美術館)が知られ、その図様が巷間に流布したことを物語っている。
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