―402―以上、光茂が創案したと推定される図様が、民間の絵師のみならず、長谷川派や山楽などの狩野派にも及んでいることが改めて確認出来るわけだが、長谷川派や京狩野が中央で伝統的な画題を描いていく場合、土佐派の故実的な図様を知らないことには受け入れられないという状況があったのだろう。そしてその流布の大きな要因は、光吉の存在があってこそとも言えよう。本来が土佐家の直系の血筋でもなく宮廷絵所を離脱した光吉にとって、これらの図様を所持していることが土佐派存続の生命線であったろうことは想像に難くない。うがった見方をすれば、光吉が他派に対するこれらの図様披見を、積極的な土佐派の戦略として用いた場合も十分にあったとと思われる。おわりに近世障屏画の図様面に果たした光茂図様とその継承者である光吉の役割の一端を、具体的な作例を示しながら述べてみた。これによって、光茂最晩年から堺に下った光吉時代の土佐派を、これまでのように「衰退期」という一言で片づけてしまうことがあまりにも一方的な見方であることが明らかとなろう。最後に付言しておきたいのは、後世、これら規範的図様が屏風絵の一双形式として制作される場合、その組み合わせに幾つかのバリエーションが現れてくるということだ。たとえば前掲の出光本やインディアナ大学美術館本、光起本の源氏物語図屏風のように、右隻の若紫の図様は三者同一でも、それぞれの左隻には異なる源氏絵の場面が選択されていることだ。たとえば光起本では、河野美術館本の「明石・浮舟図屏風」中の右隻の明石図が反転されて左隻に使われているのである。このように時代の下降につれて、従来の規範的図様の組み替えが行われていることが判るのである。さらには光茂系の「日吉山王・祇園祭礼図屏風」(サントリー美術館)のように、日吉山王図を引き離し、これに坂本の里坊を描いた一隻を右隻として加えることにより、京都・金地院本のような六曲一双形式の「日吉山王祭礼図屏風」として独立した作例も現れることだ。これは規範的図様を根拠に置いた増補現象とも言えようか。また主題の異なる規範的図様同士の組み合わせも行われたようであり、馬の博物館本のように「大原御幸図屏風」と「犬追物図屏風」とを対にした六曲一双屏風(江戸時代中期)も存在する。この規範的な図様二種の組み合わせは、時代の経過による規範的性格の希薄化といった現象を想定するよりも、むしろ規範的図様ならではの強固な視覚的イメージが確立されていた時代だからこそ、その種の作品の範囲内での異種組み合わせの趣向が芽生えたという解釈も可能であろう。
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