鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―408―天暦2年(1329)に焼失した朝元閣の重建にあたり、その上部に萬銅仏を鋳造させた。この業績は、当時の顕官・危素(1303〜1372)の勅命文によって記され、「善覚普光禅師」の号を賜っている。また至正20年(1360)から26年(1366)にかけては、寺領の干拓事業にあたり、明代に入ると寺の東方に位置する東谷菴に退居したが、洪武11・12年(1378・1379)には、二度に渡って南宋時代の天童寺再興の祖である宏智禅師の為に文章をしたため祀ったことがわかっている。ゆえに左菴が南京に赴くこととなったのは、洪武12年以降であったことがわかる。つまり、本図巻が作成されたのは洪武12年以降のことで、宗[の跋が洪武19年に記されていることから、王蒙が没する洪武18年(1385)に非常に近い時期に作成されたものと考えられる。その後、左菴が何時没したのかは不明であるが、没後は彼が退居した東谷菴の前に遺骨を納めた塔が建てられたということである(注3)。この左菴と王蒙との関係は詳しくはわからないが、安岐『墨縁彙観録』巻三(叢書集成初編芸術類)に記載される王蒙「雲林小隠図巻」の題跋者のなかに、「太白山人原良」として左菴の名が見られるとともに、本図巻の題跋者である宗[の印もあることから、宗[を介した王蒙晩年の仏教関係の友人の一人であったと思われる。その後、永楽15年(1417)には、永楽大典の編纂にあたったことでも著名な姚廣孝(1335〜1418)が本図巻に題を寄せているが、末尾部分に「永楽十五年秋七月十一日、前天童雲壑禅師、以王君叔明作太白図見示、徴余題。」とあり、当時本図巻は永楽初期に天童寺の住持となった浄観禅師(字は雲壑)の所有するところとなっていたことがわかる。ここから、本図巻は左菴によって南京より持ち帰られ、左菴没後も天童寺に所蔵されていたと考えられる。そして、この後本図巻は、呉派の領袖である沈周(1427〜1509)に所有されることになり、沈周は家蔵の宝としてこれを秘蔵すること30年以上に渡った(注4)。その後、嘉靖20年(1541)には、やはり呉派の画家で沈周の影響を強く受けた謝時臣(1487〜1567)がこれを得、その後は明代の安国・項元ì、清代の梁清標・安岐の所蔵を経て、清朝内府の所蔵となった。3.「臨王蒙太白山図」を巡る問題次にこの画の臨本を巡る問題について考察を行なっていく。現在、北京故宮博物院には、明代中期に本図巻を所有していた沈周の門弟・呉麟によるとされる本図巻の臨本が所蔵されている。また、清初の姚際恒(1647〜1714又1715)の『好古堂家蔵書画記』巻上(美術叢書三集八輯)にも、これとは別本と考えられる呉麟「臨王蒙太白山

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