鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―409―図」についての記述がある。一方、明代後期の文学者で書画にも詳しかった王世貞(1526〜1590)の『]州四部稿』巻一三八(四庫全書・集部別集類)には、「沈石田臨黄鶴山樵太白図」として沈周自身が描いた「臨王蒙太白山図」に対する題が記され、この後の画史・画論類の中には、これを引用するかたちで「沈周臨王蒙太白山図」に言及するものがある(注5)。以下、この三本の関係について考察する。呉麟は、字は瑞卿、常熟の人で、沈周の門弟で花鳥に巧みであったという。また、山水を描くにあたっては、宋元画を倣ったとされるが、詳しいことは不明である(注6)。この呉麟による王蒙「太白山図」の臨本に関しては、沈周の文集『石田詩選』巻八にその画に対する題詩が記載されている。この題詩「題呉瑞卿臨王叔明太白山図」には、沈周の所蔵する王蒙「太白山図」についての記述に続けて、呉麟が画をよくすること、「太白山図」を見たいのにそれを言い出せずにいること、沈周がそれを察して「太白山図」を貸し臨模させてやったことなどが述べられている(注7)。ところで、現在北京故宮博物院に所蔵される呉麟「臨王蒙太白山図」(以下、「故宮本」とする)は、『石渠宝笈三編』(延春閣)に記載される「明呉麟臨王蒙太白山図」だと思われる。『石渠宝笈三編』の記述によれば、「故宮本」には画の後幅に沈周による題詩が記されているが、この題詩と『石田詩選』中の題詩を比べてみると、多くの異同が認められる。また、「故宮本」の沈周題跋の後方には王世貞の題が記されており、これは上記の『]州四部稿』中の「沈石田臨黄鶴山樵太白図」の内容と一致している。そして、『石渠宝笈三編』の編纂者は、呉麟画に対する記述の末尾に、この「故宮本」がこれまで沈周画とみなされていたこと、王世貞の跋もそれを踏まえて記述されているが、これらが共に誤りであることを指摘している。また、「故宮本」の沈周題詩は沈周の文集に見られるが、「故宮本」末尾の「我能製此巻、子当珍自秘」とある部分の「能製」の二字と「珍」の字は、沈周文集中の題詩にはなく、後人によって補われたのであろうとしている(注8)。この『石渠宝笈三編』の編纂者が指摘している「我能製此巻、子当珍自秘」の部分は、『石田詩選』では「我自襲我巻、子亦当自秘」となっている。これを読み比べてみると、本来の『石田詩選』のほうが、「私は私の画巻(王蒙「太白山図巻」)を蔵しておくので、君(呉麟)は自分で描いた臨本を持っていなさい」という意味に読めるのに対して、「故宮本」は「私がこの画巻を作ったので、君はこれを持っていなさい。」、つまり沈周が呉麟のために王蒙「太白山図」の臨本を描いて与えたという意味に改変されていることがわかる。つまり「故宮本」は、後人によって題詩を書き換えられることで、本来呉麟画であったものが沈周画であるように装わされたものとみなせよう。このように「故宮本」の題詩が改変されて

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