―410―「臨太白山図」についての記述がある(以下、「好古堂本」とする)。姚際恒はこの記「臨王蒙太白山図」が少なくとも2本は存在していた。そして、現存する「故宮本」いたからこそ、王世貞は「故宮本」を沈周画だと認識したのである。そして、ここから王世貞による沈周「臨王蒙太白山図」に対する記述は実際は呉麟の「故宮本」に対するものであって、沈周画は本来存在していなかったことが明らかになった。一方、清初の姚際恒の『好古堂家蔵書画記』巻上には、彼が所蔵していた呉麟の述の末尾に、王世貞の『]州四部稿』に沈周筆の「臨王蒙太白山図」に関する記述があることを述べている。そして、「王世貞の沈周画に対する記述には沈周の題詩が引用されているが、その題詩はこの呉麟画に付された沈周題詩の一部に手を加えたものである。ゆえに、王世貞の見た沈周「臨王蒙太白山図」は贋本であったに違いない」として、王世貞の鑑賞眼の低さを揶揄している(注9)。この姚際恒の口吻から、「好古堂本」には「故宮本」に記されていた王世貞の題が付されていなかったことがわかる。また「好古堂本」の沈周題詩は、「故宮本」と違い『石田詩選』の沈周題詩と一致している。そして、「故宮本」巻中には「太白図」の自題が記されているのに対して、「好古堂本」には自題はなく、巻前に沈周の弟子・王綸(字は理之)の篆書による「太白山図」の題が記されていた。以上から、「好古堂本」と「故宮本」は別本だと考えられ、「好古堂本」のほうが真跡、或いは真跡に近い呉麟「臨王蒙太白山図」であった可能性が高い。このように、明代後期、遅くとも王世貞の時期には、呉麟或いは沈周に仮託されたは、実見していない以上確実なことを述べることはできないが、明代後期に意図的に製作された贋本である可能性が高いものだと考えられた。いずれにせよ、呉麟或いは沈周とされた「臨王蒙太白山図」を巡る諸問題を考察していく過程では、明代に盛行したとされる贋作製作の実際の興味深い一端を窺うことができた(注10)。4.「太白山図巻」の写実の実際天童寺は、浙江省^県の東方、寧波市から東に約30キロの太白山麓に位置している。伝承では西晋永康元年(300)に僧・義興がここに庵を結び「天童寺」と称したことから始まったとされる。本図巻は、この天童寺とそこに至る「二十里松」と呼ばれる松並木とそこに参集する多くの人々の様相を描いたものである。ところで、王蒙は、その代表作である「青卞隠居図」(上海博物館蔵)では彼の故郷・湖州近郊の卞山を画の舞台とし、晩年の作と考えられる「具区林屋図」(台北故宮博物院蔵)では太湖中の島・洞庭西山にある林屋洞周辺の景を描いている。しかし、これらは共に実際の
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