鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―411―景を必ずしも忠実に写したものではなく、王蒙自身のその場に対するイメージを絵画化したという側面が大きい。これに対して、本図巻は光緒13年(1887)刊の『天童寺志』巻首所載の挿図「山図」〔図2〕など、天童寺周辺の景を描いた画を見る限り、実際の景に即して描かれたものと思われる。そこで今回は、本図巻と実際の景との異同を確認するため当該地に訪れ、実際の景と本図巻の景との比較を行なった。しかしながら、王蒙作画時から現在までには七百年以上の隔たりがある。そこで、この空隙を埋めるために、やはり王蒙作画時より五百年程経た史料であるが、上記の『天童寺志』「山図」などをはじめとする文献史料を使用して王蒙作画当時の様相を再現することを試みる。まず結論より述べれば、本図巻に描かれる景と実際の天童寺及びその周辺の景とは、やはり非常に近いものであった。画巻は、なだらかな山を背にして後方に広々とした水の広がるのどかな集落の描写から始まる。ここは、宗[が題詩冒頭部分で、「小白市太白峰、二十里松居其中」と詠っているように、小白市(現在は小白村)と呼ばれる村である。現在では小白村は「三浦水庫」というダム湖に面しているが、『天童寺志』「山図」でも、小白村の前面には広々とした水面が描かれており、参詣の人々は寧波近郊から水路にてこの村までたどり着くことができたようである(注11)。道の両側に紅葉した樹木の生い茂る小白村を抜けると、すぐに「萬松関」と呼ばれる山門が見える。そこから天童寺境内に至るまでは延々と続く「二十里松」と呼ばれる松並木が描かれる。現在では、この松並木は太白山の麓の村「太白村」から天童寺境内に至る約1.5キロのみになってしまったが、『天童寺志』「山図」を見ても明らかなように、もとは本図巻の描写の通り小白村から天童寺境内まで続いていた。小白村から天童寺境内までは直線距離にしても六キロ以上あり、道に沿って歩けば「二十里松」の名の通り十キロ近くの距離になったと考えられる。画面の後半に至るまでは、なだらかな山並みと時折垣間見える水の空間などを背景とし、画幅とほぼ平行するように延々と続いていく「二十里松」とそこを行き交う僧侶や旅人などが描写されている。その間には、「二十里松」を横切る三本の川とそこに懸かる橋が描かれている。今回の調査では、「二十里松」途上に本図巻に描かれるような橋をみつけることはできず、農業用水路のような細い流れが何本か舗装された道路の下を流れているだけであった〔図3〕。しかし、民国9年(1920)刊の『天童寺続志』巻首「山図」〔図4〕では、小白村から天童寺境内までに、王蒙画にあるような規模の橋が4本ほど懸かっている。王蒙当時にも橋が懸かっていたと考えてよかろう。それに対して、画巻前半部前景をほぼ一貫して流れる川は、その存在を怪しま

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