鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―412―れる。『天童寺志』『天童寺続志』の挿図前景には、「天童渓」「清水潭」などの水の部分が描かれている。しかし、これら両図は本図巻とは逆の方向から眺めたものである。本図巻の描写通りに川が流れていたとすると「二十里松」の向こうに水流が描かれていなければならないが、両図にはそうした描写はなく、今回の調査でもそのような水流をみつけることはできなかった〔図5〕。また、画巻中央部の旅の僧侶一行や荷を担いだ人物が渡る太鼓橋のような形状な橋は、その下を舟が通行できるような比較的大きな橋だと思われるが、これも今回の調査では見られず、『天童寺志』『天童寺続志』にもない。川自体の存在が疑わしいのであるが、これだけの規模の橋が跡形もなく消失してしまうとは考えにくく、前景の水流も含め、王蒙当時にも存在しないものであった可能性が高い。実景と食い違っている描写部分は他にもある。天童寺伽藍前面の池の部分である。この池は、「萬工池」と称されるもので、王蒙画では三池が描かれるのに対して、本来は「内外萬工池」の二池しかなく、この両池の中間には七塔が建っていた。この池と塔は、紹興4年(1134)に設えられたもので、それ以降も一貫して両池七塔であったことが史料にみえている(注12)。また、本図巻では、小白村から天童寺境内に至るまで、「二十里松」入り口に「萬松関」が描かれるのみで、そのほかには何の建造物も描かれていない。しかし、天童寺境内に至るまでに少なくとも三つの山門或いは亭があったと思われ、この点も本図巻は実際の景と異なっている(注13)。このように本図巻は、いくつかの点で実際の景と食い違っている。特に「萬工池」の数の相違や前景の川の不在には、実際に王蒙が当地に赴いたのか否かと疑問に感じざるを得ない。しかし、今回実際に「二十里松」を歩き天童寺を訪れてみた結果、本図巻は当地を訪れる人々がその場から受けるであろう身体感覚のようなものを極めて巧みに表現していることを感じた。画面の約三分の二を占める「二十里松」の描写は、筆線・色彩の変化も少なく、途上にあるべき山門や亭の描写も廃されて単調とも言いうるものである。しかし、この松並木の描写には背景の広々とした山水と行き交う人々の楽しげな描写が加わり、画面に変化やアクセントがもたらされている。そして、天童寺境内が近づいてくると、背景は全く余白のないうねるような山塊で埋め尽くされ、そこだけ光が当たったような青々とした「萬工池」と、幾重にも重なった天童寺の伽藍が描かれて画巻は終了している。こうした描写は、実際にこの地を歩き、天童寺伽藍を前にした時に受ける感覚と見事に合致している。どこまでも延々と続く「二十里松」を、右手左手に広がるなだらかな山々を望みながら歩いていくと、しだいに人の往来が増えてくる。やがて黄色い袈裟を着た僧侶た

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