―413―ちが楽しげに語り合いながら下山していくのにすれ違うようになると、突然に眼前が開けて大きな「萬工池」が見え、そこから天童寺の伽藍が奥へ奥へと続いていく。そして、天童寺の背後には行く手を阻むように太白峰が高く聳えているのである。このように見てくると、「二十里松」途上の建造物を廃し、「萬工池」の数を増やして広々とした空間を創出するなどの本図巻の実景との相違は、逆に当地を訪れた際に受ける感覚を効果的に表現するために作者が意図的に行なったことであるとも考えられた。また、実景との相違は画面構成上でやむを得なかったという側面も考えられる。すなわち、前景の川の不在については、本図巻が画巻上に描かれていることから、主景物であり、到着点でもある天童寺伽藍は必然的に画面左に描かざるを得ない。すると、本来「二十里松」の向こう側にある川を、画面の中に効果的に描き入れることができなくなってしまうのである。そこで本来の位置関係を変えて水流を前面に描き、「二十里松」と交差させるなどして、画面に生動感を与えたとも考えられるだろう。5.「太白山図」の王蒙画中での位置付け上述したように本図巻は、画を贈られた左菴の動向と宗[の題跋の記年から、洪武12年以降の王蒙没年の洪武18年に近い時期の画と考えられた。そこでここでは、この本図巻の制作時期、つまり王蒙晩年に近い時期に作成されたとされる王蒙作品を中心として、本図巻との様式や描写の相違を確認することで、本図巻の表現上の特質を明らかにするとともに、王蒙画中における位置付けを行なう。比較的信頼にたる王蒙の伝称を持つ作品のなかで、本図巻に最も近い時期に作成されたと考えられる画は、「具区林屋図」〔図6〕である。筆者はさきに、この「具区林屋図」に関する考察を行い、この画は概ね洪武5年(1372)前後の作ではないかという見解を提出した(注14)。また、張光賓氏は『元四大家』(国立故宮博物院(台北)1975)のなかで、本図を洪武8年(1375)頃の作とするなど、本図が王蒙晩年の作であるということはほぼ定説と考えてよかろう。この「具区林屋図」と「太白山図巻」を比較してみると、まず第一に両図ともに画面全体の運動感を表出したり観者の視線を誘導したりするために、樹木の形態を非常に効果的に使用していることがわかる。「具区林屋図」では、前景右の土坡を起点として山の稜線に沿ってジグザグに上昇していく動きが表されるが、これは岩肌に細緻に施された皴の使用と共に、樹木を画面の動線に合わせるかたちで描き込むことで強調されている。そして「太白山図巻」では、「二十里松」上の松や紅葉した樹木は、時に不自然なほど湾曲して、画面を画巻進行方向に導くと共に、観者の視線を点景として描かれる人物上に立ち止まらせる。
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