―415―と考えらえる「芝蘭室図巻」(台北故宮博物院蔵)〔図9〕(注15)でもこうした空間が表現され、明代以降の王蒙画には、このような余白の全くない閉ざされた空間を描くことに対する指向が顕著に見える。このように「太白山図巻」は、王蒙後期或いは晩年の作品と相通じる要素をもちつつも、それを更に進展させた描写方法がとられている。宗[の題跋や左菴の動向から、王蒙最晩年の作と考えられたが、その描写方法から見ても王蒙最後を飾るに相応しい優れたものになっているといえよう。6.終わりに以上述べてきた問題以外に、本図巻にはその末尾の王蒙印が押印された部分が切り取られ、後に貼り戻されたのではないかとされる問題がある。これは、これまで当時の所有者が、洪武3年(1380)にはじまった胡惟庸の獄に連座して獄中死した王蒙との関係が露見するのを恐れて、王蒙の痕跡を消し去る目的で王蒙印のあるこの末尾部分を切り取り、のちに貼り戻したものとされてきた(注16)。しかし、今回本図巻を実査した限り、貼りあわされた部分の描写はその前部に比べて、筆は余りに弱く樹木の描き方も単調で、王蒙の手になるものとは考えにくい(注17)。王蒙印部分が切り取られたという事実があったとしても、現在貼りあわされている部分に関しては、後模のものであると考える。以上、王蒙筆「太白山図巻」を巡って、その臨本に関する問題も含めて検討してきたが、上述したように本図巻には画の舞台を訪れた際の身体感覚が巧みに表現され、実際の景を自分の足で歩きたどり着くことができるような身近のものとして描いている。こうした山水の描き方は、王蒙以前、或いは本図巻以前の王蒙画にもみられない。その一方で、本図巻とほぼ同時期のものと考えられる洪武15年(1382)の王履「華山図冊」(北京故宮博物院・上海博物館分蔵)は、描写・筆法などは大きく異なるが、やはり自分で歩いた実際の景を身近に説明的に描いている。ここから、王蒙が本図巻のような画を描いた背景には、当時の社会に共通した某かの要因が影響している可能性が考えられる。また、明代中期以降の呉派の画家たちは、「紀遊図」をはじめとして、しばしば本図巻のような傾向を有した画を描いている。こうした本図巻制作に関わる時代性の問題や、本図巻の後世に与えた影響などの問題を今後の課題として、引き続き本図巻及び王蒙画についての研究を進めていきたい。
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