鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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注Richard Ellis Vinograd “Wang Meng’s “Pien Mountais” The Landscape of Eremitism in LaterFourteenth Century Chinese Painting” unpublished Ph, D. dissertaition, University of California,Berkeley, 1979など。 宗[題跋の関連部分を以下に記す。■この他に、宋濂『宋学士文集』(四部叢刊初編・集部)にも左菴の名が見えるが、詳しい記述■沈周が本図巻を所蔵していたことは、画中及びその後幅に押印された沈周の所蔵印で確認できるが、沈周『石田詩選』巻八(四庫全書・集部別集類)「題呉瑞卿臨王叔明太白山図」には、「我家太白図、…我蔵三十年、吝客未軽示。」とあり、沈周が本図巻を三十年以上に渡って蔵し、めったなことでは人に見せなかったことがわかる。ところで、本文中に言及した遼寧省博物館編『書画著録・絵画編』では、沈周以前の鑑蔵印として、明人の「□淵」「二霊山房」「方問」の三人の印を挙げている。「□淵」は筆者が確認したところ「天淵」と読め、これは本図巻の題跋者の一人・釈清濬の号である。また、「二霊山房」は、同じく釈清濬の書斎名で、この二印は共に釈清濬のものである。また、「方問」は「南州高士方問」の印から導き出された名であるが、「南州高士」という号は後漢の人・徐穉(字は孺子、南昌の人)が「南州高士」と称されて以来、徐姓の者が好んで使う別号なので、やはり題跋者の一人である徐仁初の印であることは間違いない。また、これら三印はそれぞれ釈清濬・徐仁初の題跋部分に押印されているので、本図巻の所蔵印でないことは明らかである。■『御定佩文斎書画譜』巻八七、孫鑛『書画跋跋』巻三(共に四庫全書・子部芸術類)などに記■『明画録』巻三、『無声詩史』巻六、『海虞画苑略』(共に画史叢書)などに簡単な記載があるほか、明代中期の思想家・陳献章の文集『陳白沙集』(四庫全書・集部別集類)にも、呉麟画に対する題記などがある。■沈周「題呉瑞卿臨王叔明太白山図」の関連部分を以下に記す。■『石渠宝笈三編・延春閣』「明呉麟臨王蒙太白山図」注記部分姚際恒『好古堂家蔵書画記』巻上の関連部分を以下に記す。「故宮本」の沈周題詩には「宏治新元春二月」(弘治元年(1488))の記年がある。この年に既に王蒙「太白山図」を所有して三十年経ていると述べていることから、沈周は1458年頃、つまり三十歳の頃より本図巻を所蔵していたことになる。しかし、本文中にも述べたように「故宮本」の沈周題詩は後人の手になることは間違いなく、この記述から沈周が王蒙「太白山図」を入手した時期を導き出すことはできない。常盤大定『支那仏教史蹟踏査記』(龍吟社 1938)などをはじめとし、戦前にこの地を訪れた―416―「左菴昔年此説法、山谷答響撞鉅鐘。只今九重城裏住、夢魂夜夜^江東。銭唐有客曰王蒙、為君写此千萬松。」はない。載されている。「呉生学丹青、不但許能事。久已知此巻、未敢言借視。我既察其色、一出厭所嗜。」「謹案是巻旧題沈周太白山図。王世貞跋指為沈周臨王蒙本。均誤。考沈周詩見本集。乃題呉瑞卿臨王叔明太白山図也。是巻詩末韻云、我能製此巻、子当珍自秘。能製二字珍字原缺。係後人所補。」「案四部稿有題沈石田臨王叔明太白山図、亦系此詩略加刪改、其為贋本無疑。]州賞鑑之疎如此。」

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